「……はい、こちら雛見沢入江診療所、山狗部隊です。……え……?」
 昭和58年。
 綿流しを迎える、少し前の雛見沢……入江診療所の地下。
 そこに、一本の電話が鳴り響いた。
 通信部隊に入隊していた隊員が、電話を取って疑問の声を上げる。
「んん? どうしたん?」
 その様子に、傍を通りかかった小此木が気づく。
 不用心にも通信室の部屋のドアが開いていたのを注意しようと気を向けた矢先だった。
「……ぁ、隊長。ちょうどよかった」
「……?」
 受話器を持った隊員の態度に首をかしげながら、小此木は歩み寄る。
「その……一言でいえば、おかしな電話が……隊長に。名前を言わず、とにかく小此木隊長に電話を代われ、と……」
「おかしな電話ぁ? ……代われ」
 小此木は怪訝な顔をしながら受話器を奪い取った。
 それを耳に添え、もしもし、と電話先の相手へ告げる。

「……お久しぶりね……」
「……!」
 その声を聞き、小此木の目が見開かれる。
 その反応に、回りの隊員も気が付き、視線が集中する。
 部屋から雑音が一切消えた。……それは、まるで……その電話の相手のみが「音」を発する事を……許されたかのようだった。


 *     *     *

 雛見沢村、6月下旬。
 夕暮れにはひぐらしが鳴き、村民達はそれをBGMに祭りの準備の最終段階に入っていた。
 もうすぐ日は暮れる。そしたら、本格的に古手神社の境内は賑やかになるのだ。
 辺りにはお祭りを思わせる露店が立ち並び、今夜の……文字通り、お祭り騒ぎを道行く人々に連想させた。 
 浴衣を着て訪れている者もおり、ますます今年の綿流しのお祭りの発展が伺えた。
 そして、その中に……ゆっくりと歩いていく人々とは対照的に、走り回っている女性が、一人。
「もぅ……一体どこに行っちゃったのかしら……」
 キョロキョロとあたりを見回しながら、長い髪を揺らして走っていく。
 鷹野は、綿流しの実行委員である入江を探していた。
 鷹野と入江は、雛見沢症候群を研究する、研究者仲間だ。その研究は、表向きは雛見沢唯一の診療所として機能している入江診療所で、内密に行っている。
 最近はその奇病がこの二人を中心に解明されており、普段はプライベートとして参加する綿流しであっても話は尽きないようだった。
 入江は古手神社の奥にある、集会所の一角に居た。
「入江先生! ここにいらしたんですね」
「あぁ、鷹野さん。どうしたんですか?」
「いえ、今後の研究について……少し、お話がありまして……」
「あぁ、それでしたら……場所を変えましょうか。それじゃ、悟史君……もう、お祭りへ行っていいですよ」
「はい。お二人も、研究……頑張ってくださいね!」
 厄介払いのような扱いを受けた悟史だったが、返事をする彼の表情は笑顔であふれていた。
「悟史君、いつも……ありがとうね」
 集会所の玄関で、靴を履こうとした悟史へ鷹野がへりくだった言い方で告げる。
 これでも、鷹野なりの感謝の現れだった。
「いえ、いいんです。僕も、研究の役に立てるならこれほどうれしい事はありませんから」
 悟史は、何をいまさら、というように返した。
 鷹野が感謝の意を表すのも、当然といえば当然だ。雛見沢症候群の研究は昨年までお世辞にもいい方へ進んでいるとは言えなかったが、昨年より北条悟史という研究体を本人の同意の上で手に入れた。
 研究所は悟史をサンプルとして雛見沢症候群の神秘のベールを一つ一つ取り除き、この一年間で飛躍的に成果を挙げていた。
 それこそ、今年中には研究は終了し、新たな病気として世に広まる勢いである。
 高野一二三という祖父を持ち、その願いを叶えるために雛見沢へやってきた鷹野にとっては、救いの神とはまさに今の悟史のことを言うようなものだった。
「それじゃ、また何かあったら言ってくださいね。お手伝いできることは何でもやりますから」
「……本当に、ありがとう……」
 靴を履き終え、笑顔を浮かべる悟史にもう一度だけ礼を言う。
 その様子を見ていた入江は、微笑みを浮かべていた。
「……あ、それから……鷹野さん」
「……? 何かしら……?」
「富竹さんと一緒に、後で詩音を誘って祭具殿へ行ってくれますか? ……詩音から、そう伝えるように頼まれたので」
 少し不自然に思う鷹野だったが、それでも構わないだろうと思い、承諾する。
「……そう、分かったわ。……くすくす、今ならオヤシロ様の祟りだって怖くはないものね」
 
 雛見沢村も、他所と等しく六月下旬を迎えた。
 ……綿流しのお祭りは、今年も幕を開ける……。

 


 ひぐらしのく頃に 天下り編


 
 晴れぬ夜空に私は嘆く
 ひとつのカケラをなくしたから

 晴れぬ夜空に私は怒る
 私を遮る壁だから

 晴れぬ夜空に私は笑う
 なくしたカケラを見つけたから

 Frederica Bernkastel

 


 第1話『昭和58年』

  


「……ふぅ……。ほんと、信じられないくらいに話が上手く進んだわね」
「あぅあぅ、これも……圭一が頑張ってくれたおかげなのですよ」
 私が溜息と共に漏らした言葉に、羽入は恐る恐る返した。
 オヤシロ様の祟りと称して今まで繰り返されてきた連続殺人事件。その裏で暗躍していた山狗。
 ……しかし、今はどうだろう?
 去年、圭一は悟史の居場所を突き止め、詩音と悟史を再会させる事に成功した。
 そのおかげで、詩音がL5に陥る状況は未然に回避。……それどころか、悟史の協力――いえ、お人よしと言った方が相応しいかしら。くすくす……――によって研究はすこぶる良好。
 鷹野はすっかり研究に没頭し、入江もその期待にこたえようと頑張っている。
 鷹野が動かない以上、山狗が何かをする事も無いだろう。
 沙都子の機嫌も本当にいいわ。……兄とは一緒に生活できずとも、その存在が傍にいて、いつでも会えるのだと知っているからだろう。
 ……これ以上ないってくらいに、サイコロは6の目を出し続け、……昭和58年はやってきた。
 これは、本当に……奇跡と言ってもいいぐらいの確率。リスクを伴っても、それに負けない強い意志が呼び寄せた……素晴らしい世界だった。
 でも……だからこそ、これから何かが起こるんじゃないかと不安になってしまう。
「……圭一……」
 小さく……圭一の名をつぶやく。
 私は、演舞を終えたばかりで、休憩室に腰をおろしていた。
 鷹野達は私の演舞中に祭具殿へ近寄るんだから……圭一が帰ってくるなら、そろそろだろう。
「……そろそろ、帰ってくるのではないですか……?」
「そう、ね……」
 自分でそう言って、……胸が高鳴るのを感じた。
 ……不思議な事に、先ほどまで感じていた不安も全て吹き飛んだ。
 これは……顔が、赤く……なっているのかしら……。
「あぅあぅ……梨花も『お年頃』なのです……♪」
「あぁもう、黙りなさい! ……い、行くわよ!」
「あぅあぅ、梨花のお顔は真っ赤っ赤〜なのです〜」
 羽入に茶かされて、ますます顔が赤くなっていくのが自分でも分かった。
 ……言い返せないのがちょっぴり悔しい。
 もうすぐ圭一は帰ってくる。足取りは、本当に軽かった。
「あ! おーい、梨花ちゃーん!」
 休憩室から外に出ると、魅音がこちらへ手を振っていた。
 後には、レナ、沙都子、悟史、詩音が続いている。
「みぃ、皆揃ってまだ部活をするのですか?」
「え? いやー、これから打ち上げでしょ? だから、我が部の総力を決して盛り上げてやろうと思ってね〜!」
 魅音はパチッとウィンクをして得意げに言う。
「けど、圭一君がまだ居ないんだよ、だよ」
「そうですねぇ、圭ちゃんどこ行ったんでしょうかね〜」
 レナが言い終わるか終わらないかの内に、詩音が口を挟んだ。……あれはどこに居るのか知っているクチだ。
「……あ、詩音! アンタ圭ちゃんがどこに居るか知ってるでしょー!?」
「……すっごく怪しい……」
 双子でなくとも分かる、詩音のニヤニヤ顔から察するところはみんな同じだ。
 レナと魅音が詩音を取り囲むが、「きゃー、悟史くぅん」という猫撫で声で悟史の後へ逃げた。
 しょうがないなぁ、という顔で悟史はレナと魅音をなだめ始める。……流石、詩音の尻拭いは慣れているようだった。
「おーっほっほっほ! 勝手にいなくなったお人を探すのに私たちの時間を使うのなんてもったいないですわ! 私とにーにー、ねーねーはお先に打ち上げで大暴れさせていただきましてよー!」
 笑顔でそう言う沙都子は、詩音と悟史を背中から押しながらせかす。
 そして、私へ振り向いてパチッとウィンクをした。
「……」
 ……どうやら、私の親友はこの胸中を察しているようだ。
 ありがたくこの機会を使わせてもらう事にする。
「みぃ……圭一はボクが探しておくのですよ。見つけたら口にはできないとんでもないオシオキをしてから引っ張って連れて行ってあげるのです☆」
「はぅ〜〜、り、りりり梨花ちゃん、そ、その口にはできないとんでもないオシオキってな、何なのかなぁ〜〜っっ」
「わーー、レナ、だ、ダメだよっ! 梨花ちゃんの巫女服は簡単に作れるもんじゃないんだからねー!! しかも作ったの、あ、あの婆っちゃだし!!!」
 魅音はお魎の恐ろしさをよく知っている。
 ……つまりは、私の傍に居ながら私と巫女服が土煙りで汚れるようなマネを許したらどうなるのかが瞬時に脳内に描かれたのだ。
 魅音はかぁいいモードになったレナを羽交い締めにして、ずるずると引っ張っていく。
「そ、それじゃー圭ちゃんの事は梨花ちゃんに任せた! 私ら先に行ってるからねー!」
「みぃ☆ 承ったのです」
 ふふ、作戦成功。
 皆には悪いけど……しばらく圭一と二人っきりにさせてもらおうかしら。

「……」
「……あ、あぅあぅ……梨花の目つきが悪すぎるのです……」
 あと一人邪魔なのが居るんだけど。
 羽入はいつまでたってもぽやっとした顔をして動こうとしない。
 ……今夜……キムチとワインは決定ね……。覚悟しなさい……。
「……」
 私はさらに視線をするどくした。
「あぅあぅあぅあぅ! キムチとワインは勘弁なのです〜〜〜!!!」
 ふ、チョロいもんだわ。
 自慢じゃないけど、羽入の扱い方は心得てるつもり。
 私は軽快な足取りで祭具殿へと向かった。

 ……すると、その途中……ちょうど、皆が居る集会所の傍を通りかかった時、向こうから誰かが走ってくるのが見えた。
 ……あれ、は……。

「……圭一!」
 それは……紛れもなく、圭一だった。
 この5年間で、ずっと……ずっと触れ合ってきて……知った、前原圭一という存在だ。
 「1年間」の別れを経て……私たちは、再び……出会った。

「……梨花ちゃん……!」
 その、声も……いつも、私を安心させてくれる……圭一のものだった。
 だから、言う。……今まで、圭一は頑張ってきたから。……私は……それを、誰よりも……知っているから……。
「……おかえりなさい、圭一」
 やっと、彼は……あるべき時間へ、帰ってきたのだ。
「ああ。……ただいま」
 圭一は微笑んで、私に返した。

「待っていたわ」
「……ありがとう。……これが、最後になるな。四つ目……。……前原圭一、古手梨花と共に居ると……ここに誓おう」
 ……その言葉は……本当に、嬉しかった。
 長い間、圭一とは付き合ってきたけど……こんな気持ちになるのは、初めてかもしれない。
 ……だから、心の底まで、じーんと沁みる……。
「承ったわ……」
 それを表に出さないように、涙が出そうになるのをきゅっと抑えて圭一へ視線を送る。
 ここで私が涙なんか見せたら、鈍感な圭一の事だからあたふたするだろう。帰ってきて早々そんな目に遭わせてもしょうがないしね。
 ……さて……どうしようかしら……。
 このまま圭一と一緒に過ごすのも悪くない……というか、それが目的で皆を追いやったわけだけど……。
 ……今は、彼にここに居ることの幸せをかみしめさせてあげる方が先なのかもしれない。
 ……しょうがない。圭一との時間は、もうちょっと後に回してあげるわ。
 圭一にとっての最大のご褒美は……部活メンバー全員でわいわい騒ぐ事だろうから、ね。
 ちょうどいいわ。魅音が言っていたように、打ち上げの場で暴れまわってあげようじゃない。
「……それじゃ、行きましょうか?」
「……? どこに?」
 圭一はキョトンとして視線を返した。
 ……だから、言ってやる。……一年前、貴方が口にした……そのままを……。
「……あなたの、『幸せの形』のもとへ……」
 そして……集会所を指差した。

「おーい! 圭ちゃーーん!」
「圭一くーんっ!」
「圭一さーん!」

 集会所に居た魅音達が気づいたのだろう。
 圭一を見つけ、縁側からサンダルを履いてかけてくる。
 詩音と悟史は、そんな彼女らを笑顔で見送っていた。
 まっすぐ私たちのもとへやってきた皆は、圭一を囲んで騒ぎだす。 
 ……まったく……憎い男。
「今から打ち上げだよ! レナも沙都子も梨花ちゃんも、勿論私も参加するけど……どうする?」
「ヘッ……!」
「……、……」
 圭一は、涙を必死にこらえているようだった。
 その様子が……かわいくて。思わず、笑顔になってしまう。
 そして、いっぱいの元気を振りしぼって圭一は声を張り上げた。
「参加するに決まってるだろ!」
「よし決定!! じゃ、うち等が一番乗りと行こうじゃない!」
「よーし、突撃だ、皆ーーーーー!!」

「「「「 おーーーーッ!!! 」」」」

 圭一は腕を突き上げ、皆もそれに続いて夜空へ腕を突き上げた。
 ……もちろん、私も。ふふ……本当に、圭一は一緒に居て退屈がしないし……心が落ち着く……。
 久しぶりに感じた圭一のぬくもりは、やっぱり……いつになっても、変わらないのだ。
 安心感は胸を満たし、私たちは集会所へ走って行った……。


「……あぅあぅ、……梨花……」
「……」
 一度は逃げて行った羽入だけれど……やっぱり、すぐ帰ってきた、か……。
 ……まぁ、この子の事だから宴会に参加する私が余計なものを口に入れないか見張る意味もあるんでしょうけど。
「……」
 ……それ以外にも、何か意味があってやってきたのだと思ったけど……。羽入は、私の傍に来てから何もしゃべらなくなった。
「……何よ? まさか本当に私が食べるものにケチつけに来ただけなの?」
「……」
 ちょっと、羽入をあぅあぅさせてやろうと思って言ってみたけど、羽入は反応しない。
 ……それは、直感的に……嫌な予感を、背筋の寒気として私に伝えてくる。 
 ジュースの入ったコップを置いて、私は立ち上がった。
「みぃ。僕はちょっとおトイレに行ってくるのですよ」
「ん? にゃ、いってらっしゃ〜い」
 ……もう酔いが回っているのかしら。
 魅音は真っ赤な顔で私を見つめ、トイレの方へ指さして、コップの中の飲み物をくぃーっと飲み干した。
「……羽入。ついてらっしゃい」
 私は羽入にだけ聞こえるように伝え、廊下へ出てから魅音の指差した方とは違う方向へ歩を進めた。
 それからしばらく歩いて、サンダルを履いて表に出た。……羽入は私にしか見えないし――例外は一人居るけれど――、普通に話してたらただの怪しい人になっちゃうわ。
 サンダルで砂利を踏みながら、祭具殿の方へ歩いていく。
 ……そして、入口にある短い木造階段に腰を降ろした。
 羽入は、私より若干遅れてすーっとついて来た。
「……あぅあぅ、……梨花……」
「……」
 たどたどしく口を開く羽入に、早く話せと先を促す。
 顔を上げたり、俯いたりを繰り返しながら、羽入は決心したように視線を私に固定させた。
「じ、実は……あぅ、えっと……」
「……何よ。言いたい事があるんならはっきり言ってくれる?」
 決心して尚言いよどむ羽入に頬杖をついて視線を外す。羽入はさらにあぅあぅしながら、私の視線の先に移動した。
「こ、この世界は……とっても、とっても素晴らしいのです。誰も互いを疑わない。誰もが、生きる目的を持って、誰かを支えて、健気に……それでも、元気いっぱい生きているのです」
「……」
 私は羽入を手招きした。
 「?」と頭に浮かべてやってきた羽入に、でこピンを一発お見舞いした。
「ぁ、ぁぅぁぅ……」
「そんな分かりきった事、今更言う必要もないでしょう。結局、何がいいたいの?」
 羽入の眼前に自身の顔を持って行き、じぃっと見つめて返答を促した。
 見つめる、というよりは睨みつける、といった方が正しいかもしれないけど。

「……不安、なのです……」
 私に睨みつけられて、ようやく……観念したようにぽつりと呟いた。
「……」
 羽入は胸の前で手をきゅっと握り、視線を落とした。
「サイコロは、1を出したり6を出したりしてきました。だ、だから……こんなにも6が続く世界が、幸せなはずなのに……嬉しいはずなのに、……あぅあぅ、……ボクは……とても恐ろしいのです……」
「……」
 羽入の気持ちは……痛いほどに分かる。
 私も、そうだからだ。

 何百年も同じ時間を繰り返し、今日……この時を迎えるまで……一年なんてものじゃない。
 もう、何十年も待って、ようやくこの世界にたどり着いたのだ。
 五年前まで時間が遡れる余裕があった時に、信じられない光景を見た。……圭一が、何故かダム闘争まっただ中にやってきたのだから。
 そして、ダム闘争は終了し、「昭和54年」に「圭一がやってくる世界」へたどりつくまでに、一体何度この身を引き裂かれ、繰り返してきたことか……。
 ……それは、54年から55年……55年から56年……56年から、57年……。その経過全てに例外なく、圭一が現れるまでに何度も58年を経験し、死を体験してきた。
 何度も何度も繰り返し、その中で……ほんのわずかな可能性で、圭一は私の前に姿を表すのだ。
 ……勿論、圭一にはそんな事は分からない。だから、圭一には昭和53年から今年に至るまで、すべてひとつひとつがつながった世界であり、古手梨花は昭和53年で前原圭一と過ごし、「その一年後にまた再会した」かのように振舞ってきた。
 ……彼が、一定の確率でループする私の世界に現れる事が、この昭和58年を超えるためのカギになると、信じてきたから。

 ……そうした苦労を重ねた上での、「この」昭和58年だった。

 だから、認めたくはなかった。……けど、毎回昭和58年で私は殺されている。
 その事実が、どうしても不安を心に残すのだ。
 さっき圭一と再会する事で消えた不安という黒雲が、再び私の中でもくもくと大きくなっていく……。
「……あぅ……」
 羽入はすっかり黙ってしまった。
 どうしても拭えない不安に、押しつぶされそうになっているのかもしれない。
 ……だから、私は彼女に寄り添った。
 二人である事で、不安も二倍になるのかもしれない。……けど、私たちは一人じゃない。
 なら……きっと、二倍の不安にだって……打ち勝てる。
 
 圭一が、それを教えてくれたから。

「……よ。何やってんだ、お二人さん」
 そして……タイミングがいいのか悪いのか。
 ……圭一は、片手をポケットに、もう片方の手を挙げて私の前に現れた。
「……あぅ、圭一……」
 羽入がつぶやくと、圭一はそっちへ視線を向けた。
 ……瞳は、するどい視線を放っている。目つきが悪い、と言った方がいいかしら。……まぁ、私はもう慣れたけどね。
「どうして……ここが……?」
 その視線に慣きれていない羽入は若干弱弱しく尋ねる。
 それに気づいたのか、圭一は表情だけでも和らげて、口を開く。
「……梨花ちゃん、魅音が指差した側とは違う方へ歩いて行っただろ。それでピーンときた」
 ……やっぱり、気づいてくれたみたいね。
「適当に待ってから俺もそっちへ行ったら、レナ達が俺を打ち上げに呼ぶ時使ったサンダルが一足なかったからな。で、あとは直観。祭具殿へ来てみたら、ビンゴだった、ってわけだ」
「ふふ……。流石にダム闘争から今年までわざわざ綿流しの日だけを経験してきただけはあるみたいね」
 私は瞬きをしてから立ち上がり、圭一の前へ歩み寄った。

「圭一。これから話す事を、よく聞いてください」
 そして、古手梨花として彼に伝える。
 ……この、幸せな世界に蔓延る……不安という影の正体について、検討し合うために。
「『この』昭和58年は……貴方のおかげで幸せに満ちています。……悟史も、詩音も、沙都子も。……レナ、魅音も、鷹野でさえも」
「……」
 圭一は黙って聞いている。
 私は、雛見沢を一望できる高台へと歩を進めていく。それに、羽入がすーっと続く。
 ……打ち上げの途中で抜けてきたから……今は、夜の9時ってところかしら。今が真っ盛りって感じね。
 だからか、あちこちに電気のついてない家があって……でも、それが逆に幻想的な景色を目の前に広げていた。
「私は……雛見沢が大好きなの……」
 ……じんわりと……瞳が、潤ってきた。
 私は圭一に背中を向けたまま……言葉を続ける。
「魅音が居て……レナが居て……沙都子が居て……詩音が居て……悟史が居て……、……圭一が居る……。……この世界は、とても温かくて、楽しくて……。貴方が築き上げてきた雛見沢は、とっても元気……」
 私は、振り返る。
 背中を向けたままじゃ、失礼だから。
「――けど」
 雛見沢には悪いけれど……これは、圭一に伝えなきゃいけない事だから……。
 ……隠して……どうなるって事でも……ないんだから……。

「私は……この世界が怖い……」
 
 ……風が、吹いた。
 辺りの木々から木の葉が落ちて、風に流れてどこかへ舞っていく……。
 ……私は、恐る恐る圭一へ視線を向けた。
 悲しそうな……申し訳なさそうな……そんな、表情だった……。
 ……けど……、やっぱり……圭一は、圭一だった。
 いつも……私を驚かせてくれる……。……想定してなかった反応を、示してくれる。
 次の瞬間、圭一は自信に満ちた笑顔を浮かべ、私の頭を……そっと、撫でた……。

「俺が何とかする」

 ……再び、瞳が……潤む……。
 とても、温かい……言葉……。
 圭一は……私を、ぎゅっと……抱きしめた。
「……これから先、まだ祟りを実行しようって輩が居るんなら、俺がそいつを打ち破る」
 ……あぁ……。
「雛見沢をこの手で守り通してみせる」
 ……なんて……。
「俺は――」
 ……温かいんだろう……。
「梨花ちゃんの笑顔を見せてくれる、雛見沢が大好きだから」
 言葉から……体から……圭一の温もりが、私を包んでいく……。
 もう……圭一の胸元は、私の瞳から溢れる滴で沢山濡れてしまっている。
 それでも……離そうとはしない……。
 ……力強く……ぎゅぅ、って……。

 ……ありがとう……。
 ……圭一……。

 

 

 *     *     *

「……あら……? いけない、もうこんな時間……!」
 最初に気づいたのは鷹野だった。
「……? あぁ……! 本当だ……」
 続いて、入江も腕時計へと視線を落とし、自分たちがすっかり研究の話に夢中になっていた事に気づく。
 入江は髪の毛を掻き、はぁ、と溜息を一つついた。
「いけませんね……。研究の話となると、つい時間を忘れてしまう……」
 苦笑いをしながら、入江は鷹野に話しかけた。
「そうですわね……。まさか、もうこんな時間になってるなんて……。ジロウさん、まだ待っててくれてるかしら……」
 鷹野は悟史と別れた後、彼に頼まれた通り、富竹と詩音を誘って祭具殿へと向かった。
 勿論、特に意味は無い。悟史がそうしてくれ、というから行動しただけだった。
 祭具殿への侵入は、予めお祭りの途中で会った詩音からそうしてもらうように頼まれていた。鷹野は、ここで圭一も一緒に来る事を知ったわけだ。
 そして、圭一は予想通り「やめておく」と告げ、どこかへ行った、というわけだ。
 その後、鷹野は富竹を連れて集会所の宴会に参加しようとしていた入江を引き止め、適当なところで話に花を咲かせていたのである。
 富竹は二人の話についていけず、席を外したのだった。
「富竹さんとはどこかで待ち合わせをしているんですか?」
 鷹野の様子を見て、入江が訪ねた。
「えぇ、古手神社の境内……そこの階段で……。……でも……もうかなり時間が経ってるし……先に診療所へ向かっちゃったかもしれないわねぇ……」
「富竹さんに限ってそれはないでしょう」
 入江は微笑みを浮かべて言う。
「それより、待たせているんなら、早く行った方がいいですよ。私は、実行委員会の人たちの宴会に出席するので同行はできませんが……」
「そう、ですね。ジロウさんを待たせるのも悪いし……それじゃ所長、私は先に失礼しますね」
「えぇ。ファイルは私の机の引き出しにありますから」
 入江はそう言うと、ポケットの中から小さな鍵を取り出して鷹野に渡した。
「ありがとうございます。……それじゃ、失礼しますね」
 鷹野はそれを受け取り、小さく礼をして歩いていった。
 
「……頑張りましょうね……鷹野さん……!」
 入江は、鷹野の背に小さくつぶやいた。
 ……この手で感じる、確かな実感。それが、入江にはあった。
 医者としてもう日の目は浴びられないと思っていた自分が、着実に研究を成功へと近づける事に貢献できているのだ。
 入江にとって、これほど嬉しい事はなかった。
 今、彼にとって毎日は楽しくて仕方がないものだった。
 鷹野の夢に共感し、それを手伝ってきた。それが、ようやく成就されようとしている。
 後少し。ほんとうに、後少しだ。
 入江は握りこぶしを作って見つめ、自身に喝を入れてから集会所へと戻った。

 ……風が少し冷たい。
 これから雨かな、と入江は思った。

 

 *     *     *


 圭一はゆっくりと体を離し、私を見つめた。
 その仕草に、また……胸が高鳴ってしまう。
 ……さっきから心臓が煩くてしょうがない。……もう少しくらい、落ち着きなさい。
 ……顔なんて耳まで真っ赤だわ……。こんなみっともない姿、圭一には見せたくないのに……。
「……少しは元気、出たか?」
「……!」
 圭一は少し心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「……はぃ……」
 恥ずかしさを紛らわす意味でも、圭一が言葉を投げてくれたのは嬉しかった。
 私は両頬をそれぞれ手で覆ってぽーっとしながら、小さく返した。
「そっか。なら、よかった」
 圭一は私の目線に合わせてしゃがみこんでいたが、立ち上がって伸びをした。
 その一つ一つの仕草に……こんなにも、自分が……ときめいて、いるのが……新鮮であり、少し……不思議だった。

「あぅあぅ……」
 キムチとワインがお望みかしら?
「あぅあぅあぅあぅ! 梨花が鬼なのです!! 鬼畜生になってしまったのです!!! ボクはまだ何も言っていないのです!」
 うるさいわね。アンタが水をさしたからでしょうが。
 今はアンタの仕草ひとつひとつにイライラを覚えるわ。
「で、でも……」
「五月蠅いわね……。一体何だっていうのよ……」
 背後から何度も私の頬をつつく羽入に、私は振り向いた。

「……さっきから富竹がファインダー越しに物影からこっちを見ていたのです」
  
 ブツン。
 ……あ。今何かが切れる音がした。
 刹那、圭一の姿はもう私の横には無く、

「うわ、うわぁあぁあ!!?!?! ちょ、け、圭一君、やmぐぉぁあああぁあ!!!!!」

 何か、物音がした。


「……カメラ」
 メタメタにされた富竹に圭一が手をずいっと出して一言いった。
「は、はは。な、何の事だい?」
「カメラ……!!」
「わ、分かった!! カメラは渡そう!!!」
 身の危険を感じたのだろう。
 すでに富竹の面影の無い筋肉の塊は圭一の要求に素直にしたがった。
 それにしても、富竹もある意味根性がすわってるわね……。
「……!」
 少しして、……遠くから、足音が向かってくるのが聞こえてきた。
 誰かな、と思って私は音のする方へ振り向く。
「……ぇ、ちょ、ちょっと……ジ、ジロウさん……?」
 ……鷹野、か。
 ……さっきの「物音」を聞いてやって来たのかもしれない。
「や、やぁ鷹野さん。僕だって分かるかい? はっはっは……」
 ……富竹がそう言うのも無理はない。
 圭一……一体何をしたのか、富竹の顔は右頬が大きく腫れあがっていた。
「あぅあぅあぅあぅ……ヴぁいおれんすなのです……ちょーヴぁいおれんすなのです……」
 また何か物音が聞こえた気がしたが、空耳だろう。
 むしろラップ音ね。うん。
「……ね、ねぇ……一体、どうしたの……?」
 鷹野が恐る恐る尋ねた。
 ……おそらく、誰かに特定して聞いたわけではないのだろう。
 誰でもいいから、この富竹の顔の惨状を説明してくれとそう言っているのだ。
 ……ふ、いいでしょう。この私がじきじきに説明してあげようじゃない。

「みぃ……。ボクと圭一の愛の語らいをそこの時報が物影からファインダー越しにニタニタ笑いながら覗いていたのです……」
「じほっ……!?」
<font color=red>「ジ〜〜〜ロ〜〜〜〜ウ〜〜〜〜さん〜〜〜〜〜」</font>
「ち、違う!!! 僕は決してそんな事はしてnうぎゃぁああぁぁあぁああぁあ!!!!!!!!!!!」

 くすくすくすくす。
 まさか、綿流しが終わってからこんなに面白いショーが見れるなんて、思ってなかったわ。

「――ってちょっと待て!! あ、あぁあ、愛の語らいって……!!」
 気づくのが遅いわよ、もう。
 相変わらずの圭一なんだから。
「みぃ? 圭一はもうボクと何度も布団の中で愛の語いを」
「うわぁあぁあぁぁあ!!!!!?? あ、あれは梨花ちゃんが勝手に入ってきたんだろうがぁあぁあ!!!!!」
「みぃ……圭一がボク達の『愛』を否定するのです……」
「違う!!! 違うぞ二人とも!!!?」
 慌てふためく圭一に、さっきまで文字通りの「血祭り」をしていた鷹野と富竹が視線を向ける。
 鷹野じろじろ富竹にやにや。
「け、圭一君っ! 君にはそんなしゅmだはぁ!!?」
「うふふふふ……ダメよぉ圭一君? 梨花ちゃんにそんな事しちゃ★」
 富竹の腹に正拳突きをかました鷹野が、じろじろした視線をいやみっぽいニヤニヤした笑みに変えた。
 どうやら、面白そうだからこっちを弄る事にしたらしい。
「ご、誤解ですよっ!! お、俺は梨花ちゃんに何もしてません!!」
「みぃ……圭一、ついさっきだってその温もりをボクにたぁっぷりくれたのですよ?」
「あらあら……くすくすくす!」
「だ、だからそういう誤解を招くような言い方をするなぁあぁあ!!!」
「け、圭一君っ!! やっぱり君はぐほぉぁあぁっ!!?!?!」
 鷹野のラリアットが富竹の顔面を砕いた。
 
 くすくす……。今回だけは鷹野に共感せざる負えないわね……。
 面白い……♪ くすくすくすくす……。
「だ、だから違いますって! 今までのは梨花ちゃんが言い方をややこしくしただけで!」
「でも一緒に寝たのは事実なんでしょ?」
「だ、だからほんとに寝ただけで! っていうか、勝手に布団にもぐりこまれ――」
 私は圭一の服の袖をちょんちょん、と引っ張った。

「圭一。……責任、取ってくれますよね?」

「何の責任だよぉおおぉおぉ!!!!!!!!!」
 一瞬凍りついた場の空気を、真っ赤になった圭一が粉砕した。
 これ以上凍りついたままだとますます疑わしくなると思ったのだろう。
 でも、時すでに遅し、だわ。
 くすくすくすくす……。

「お、鬼なのです……。梨花も鷹野も鬼なのです……あぅあぅあぅあぅ」
 あぁ圭一……。
 こうなったのはファインダー越しにニタニタ笑いつつ梨花と圭一を覗き見ていた富竹が悪いのです。
 ついでに梨花が腹黒で性格がひんまがっているのが悪いのです。あぅあぅ。
 ついでに鷹野が腹黒で性格がひんまがっているのが悪いのです。あぅあぅ。
 あぁ圭一……ボクは物影であぅあぅ言っている事しかできないのです……。
 ……それにしても……。
 ……類友ってこういう事を言うんですね……。

 後日、羽入がキムチ責めに遭ったのは言うまでもない。


「梨花ちゃんやるわねぇ……★ 私梨花ちゃんがあんなにできるとは思ってなかったわ……くすくす……」
「ふふ……鷹野こそ。その言い回しでいままでどれくらい富竹を泣かせてきたのかしら? くすくす……」
 それから、数分が経過して。
 真っ赤になって機能がショートした圭一と、全身に鷹野の打撃を受けた富竹が廃人になっていた。
 私を含めた二人の魔女は楽しそうにくすくす笑う。……あぁ面白かった。
「ほ……星が黒いよ鷹野さん……」
「……た、大変ですね……富竹さん……」
「……君もね……圭一君……」
 圭一達がヒソヒソと何かを話しているようだったけど、まぁいいわ。
 羽入も交えて後でたっぷりお仕置きしてあげればいい事だし。
 ……それにしても……鷹野とはこんなに話が合うものなのね。今まで損をしていた気分だわ。
「今度梨花ちゃんとはゆっくりお話してみたいわね……」
「くすくす……。いいわよ。私たち、どうやら気が合いそうだしね……」
「あぁあぁあぁ恐ろしい! 何と恐ろしい二人の気が合ってしまったのですか!! この二人の半径5mの生物はすべて死に絶えてしまうのです〜〜!!」
 羽入。覚悟ができてるからそんな事言うんでしょうね。
<font size=1>「あぁ、まったくだぜ羽入……!!」</font>
 あら? 何か聞こえたかしら。

 ……まぁ、いいわ……。
 ……にぱー★
 


 *     *     *

「それじゃ、僕と鷹野さんは一旦診療所へ戻るよ」
 何とか立ち上がった富竹が、最初に話を切り出した。
 鷹野も、腕時計を見つめてふぅ、と息を吐き、富竹のもとへ歩み寄る。
「ごめんなさいね、梨花ちゃん。ほんとはもっとお話していたかったんだけど……今日中に診療所で書類をまとめなきゃいけないの」
 鷹野は申し訳なさそうに私に頭を下げる。
「いえいえ、なのです。また今度お話に付き合ってくれたらそれで許してあげるのですよ」
「えぇ。それじゃ、ね。梨花ちゃん、圭一君」
 鷹野はそう言って手を振ると、富竹と一緒に私たちに背を向けて、歩き始めた。
 ……そこに、至って。
 ようやく、思いだした。
 ずっと感じていた、「不安」。
 昭和58年のオヤシロ様の祟りの被害者は、紛れもなく……目の前に居るこの二人なのだ……!!
「……ぁ、ま……待って!」
 私は、必死に声を振り絞って二人を呼び止める。
 鷹野も富竹も、私の声に、振り向いた。 
 それから、私は二人のもとへ駆け寄る。……近くで、ちゃんと伝えなくちゃいけない。
 二人に、危険が迫ってるかもしれない、って事を……!
「……」
 圭一は、何も聞かずに私の後についてきてくれた。
 ……流石に、何度も祟りに関わってきただけはあるわね。……直感的に、私のこの行動が今年の祟りへの抵抗だと気がついたのだろう。
「……? 一体、どうしたんだい梨花ちゃん」
「じ、実は……二人は、今夜……殺されてしまうかもしれないのです……!!」
「……!」
 富竹が目を見開いた。
 ……?
「梨花ちゃん……詳しく、教えてくれるかな……?」
「……私からも……お願いしていいかしら……?」
 ……よかった。
 この世界の二人は、ちゃんと……私の話を聞いてくれるみたいだ。
「……オヤシロ様の祟り……富竹、それから……鷹野は、よく知っていますね?」
「……えぇ。……そこの圭一君は分かっているでしょうから隠さないけど、一昨年のオヤシロ様の祟りの実行は山狗によるもの。私が知らないはずがないわ」
「その、オヤシロ様の祟りの、今年の犠牲者は、富竹と鷹野になってしまうのです……!」
 ……私は、必死に伝えた。
 普段の私でも、この運命にあがなう為にこれくらいは言うだろう。……だが、今回は……鷹野や富竹に、死んでほしくはないと思っていた。
 ……だから、いつも以上に気持ちを込めた。
 ……無力な子供でしかない、私の話を……せめて、二人が真剣に聞いてくれるように……。

 ……けれど……やっぱり、その根拠……何故そうなのか、と聞かれると言いよどんでしまう私の話は……だんだんと、二人から信憑性を欠いていってしまったようだった。
 富竹は時折苦笑いを浮かべ、鷹野は少し呆れているようだった。
 ……当たり前だ。仮に山狗が事件を起こすのだとしても、鷹野を山狗が襲うなど、普通に考えれば……ありえない。
 けど、その「ありえない」を鵜呑みにしてしまえば二人は必ず殺されてしまう……!
 ……それだけは、避けたかった……!
 でも……伝えられない……! 私の言葉じゃ……二人に、届かない……。

「――、!」
 
 いつまで経っても私の話を真剣に聞こうとしない二人に、目に涙を溜めた頃、……ポン、と……頭に、手が……置かれた……。
「鷹野さん。富竹さん」
 圭一は私の頭を2、3度撫でると、その手をそっと離して私たちの間に立ち、鷹野と富竹へ視線を向けた。
「5年前……ダム闘争でえんやわんやの時、お二人ともご存じですよね?」
 突然方向性の見えない話を振ってきた圭一にぽかんとする二人だが、お互いに顔を見合わせた後、圭一へ向き直って小さくうなずいた。
「えぇ。私もジロウさんも、雛見沢へ訪れたのはその頃より前ですもの。知っているわ」
「けど、それが一体何の話があるんだい?」
 ……鷹野も、富竹も……表情には出さないが、声色から少々不機嫌であるのが伺えた。
 ……それもそうか。二人は、早く診療所へ向かいたいはずだ。これは、私達の……ううん。私の、我儘なのだから。
 それでも、圭一を門前払いしないのは大人の対応だと思った。
 圭一は二人が話を聞く気はあるのだと確信したのだろう。視線をするどくし、二人を睨みつける。
「1人に石を投げられたら2人で石を投げ返せ。2人に石を投げられたら4人で石を。8人に棒で追い回されたら16人で追い返し……1000人に襲われたら雛見沢の全員で立ち向かえ」
 圭一は、そのまま……雛見沢に住む人なら誰もが聞く言葉を、淡々と語る。
 富竹と鷹野は黙ってそれを聞いていた。
「……俺も。梨花ちゃんも。……この雛見沢で、鷹野さんと、富竹さんと出会った。色々経過はあったけど、今はこうして仲良くしてる」
 圭一は二人の様子を窺いながら……それでも、有無を言わさぬ迫力で、話を続ける。
 視線は、鋭く二人を射抜き続けている。
 ……けど、それは……決して、敵意を表しているものじゃなかった。

「なら、俺達はもう仲間だ」

 今まで睨みつけていたのを一遍させ、圭一は穏やかな表情になった。
「鷹野さんも、富竹さんも。同じ、雛見沢の仲間なんだ。……だから、梨花ちゃんは……お二人の事が、とても心配になった。……彼女は『答え』を『知っている』から」
「……」
 二人とも、沈黙する。
 今、この空間において……圭一の声だけが、この場に居る全員の心に……沁みわたってゆく……。
「これは預言なんかじゃない。『未来起こりうる事実』だ。梨花ちゃんは、『それ』が起こる事が嫌なんだ。……鷹野さんと、富竹さんに『生きていてほしい』から……」
 ……圭一が、口先の魔術師なんて言われた理由が、今になってようやく分かった気がする。
「失いたくなかった……」
 彼の言葉には、温もりがある。
 彼は、言葉に感情を込める。
 それは、決して簡単にはじかれてしまうようなものではなく。
 ……人の心に、深く……深く、届く……。
 ……決して揺るがない強い意志と心は、彼の言葉に乗って……相手へ、伝わるのだ……。

「大切な……仲間だから……」

 ……私の凍てついた心をゆっくりと解かし、その存在を大きくした圭一……。
 彼の言葉は、決して「武器」なんかじゃなかった。
 それは、万人へ届く魔法の事象。
 生きる者全てを共感させ、彼の思いを余すところなく浸透させる……奇跡の業だった。
 お魎が望んだ「新しい風」は……。
 ……こんなにも、素晴らしい人間だった……。
 ……その願いは……前原圭一という、奇跡を操る存在を、雛見沢へ呼び込んだのだ……。
 今まで何度も奇跡を目にしてきたつもりで居た。
 ……けど、違ったのだ。

 雛見沢が、願い、彼を……呼び寄せた……。

 それが、本当の奇跡だった……。
 終わりない惨劇に終止符を打つために選ばれた……英雄の存在……。
 その存在こそが……奇跡であったのだ……。 

 私は、泣いていた。
 もう、恥ずかしいとか……そんな感情はなかった。
 ただ、ただ……圭一の胸の中で……涙を、流したかった……。

 圭一は再び私を優しく抱きしめ、包み込んでくれた。
 私は、声を上げてわんわん泣いた。……嬉しかった、から……。
 あぁ……なんて、……あったかいのかしら……。


「……鷹野さん。今夜は、特に……回りに注意しながら診療所へ行こう。……勿論、帰りもね」
「えぇ。……そうね……」

 
「圭一君。……僕達は、そろそろ診療所へ戻るよ」
「……そう、ですか……。……本当に、気をつけてくださいね……」
「……えぇ。……圭一君」
「……はい……?」 
  
「……ありがとう」

 ……鷹野の声が……富竹の声が……聞こえた……。
 その、全てが……私の心に響く……。
 伝えたかった。
 この胸にいっぱいになった思いを、口に出して言いたかった。
 ……でも、涙で顔はぐちゃぐちゃになっていて……声だって、ロクに出せやしない……。
 ……だから……、……せめて、心の中だけでも……言わせて、ちょうだい……。

 ……ありがとう……鷹野……。
 ……ありがとう……富竹……。

 ……ありがとう……圭一……。


「……梨花……」

 私の気持ちは……互いにシンクロする羽入には言葉で語るよりも深く伝わっている。
 羽入は瞳に涙を溜め、そっと私に寄り添った。
 ……圭一が……。……羽入が……。
 ……優しく……私を、包み込んでくれた……。

 ……羽入からは……母の温もりを感じた。
 2年前……私のお母さんは……オヤシロ様の祟りに遭ってかき消された。
 それ以降……忘れてしまっていた。
 何度も何度も同じ時間を繰り返すうちに、私は……両親の存在を希薄にしてしまっていた。

 ……それ、を……羽入は、思い出させてくれた……。
 母の温もりを持って……。私に、あの頃の……とても、懐かしい気持ちを見つけ出し、与えてくれた……。
 羽入の「思い」も、また奇跡……。
 それらに包まれて……私は、ゆっくりと……瞳を閉じた……。
 優しさに包まれて、意識はまどろみに包まれていく。
 瞳を閉じて、意識を休ませる事はとても怖かった。
 ……けど、もう……いいのだ。
 そんな事を気にする必要など、もう皆無だった。 

 もう……恐れるものなど、ひとつも……無いのだから……。
 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 
戻る