魅音の誘拐もどき事件から数分後。
 俺は、大石さんの車に乗っていた。
 ……何でも、柔術を教える場所へ移動するのだそうだ。
 ……で、今俺は車の中で疲労した身体を休めているところだった。
 少しぐったりとしていた俺に、大石さんは話しかける。

「いいですか前原さん。綿流しまであと今夜、明日と、当日の午前中しか時間がありません。練習は今夜、明日一日中に徹底して行い、祭りの午前中は休息をとる……という形で行います」
「分かりました。まったく問題ありません」
 俺はそう言い切った。
 確かに今は眼の使いすぎによる疲労感が押し寄せているが、じき回復する。
 ……本当に使いすぎた時は何日も寝込んじまった時もあったような気がするが……俺は本能的に把握している。
 この……眼の使用時間と疲労回復までの時間の比例法則……。
 それが……何故か大体分かるのだ。
 ……あと……少し。
「おんやぁ? 少しは反論があるかと思いましたが」
「……あと少しで……この疲労感はすべて消えうせます。その後は……ビシビシしごいてください。……何だってやってやりますよ」
 俺は手をパキパキと鳴らしながら大石さんに言う。
「いい度胸です。やはり……転んだ後に転がり続けるような人じゃありませんねぇあなたは」
「……えぇ。大石さんが……気づかせてくれましたからね。……眼の力に頼る事なら、「力」を持っている奴が他にも仮に居るのならそいつらにだってできる。……問題は、いかにその力を上手く扱えるか……でしょう?」
「あなたには説明が一度で済むから大変助かります。……その通りですよ。やはり……あなたは私の見込んだだけありました」
 今のままでは……俺は何も出来ずに打ち負かされるだろう。……ひょっとしたら、返り討ちにあうかもしれない。
 ……俺は基本的に物には触れない。
 それは、俺がいくら殴ったり蹴ったりしてもダメージを与えられない事を意味する。
 逆に言えば相手からもダメージを負わないのだが、それでは意味がない。
 一見すれば、俺に立ち向かう事など不可能だ。
 …………だが、例外もある。
 ひとつは、眼を変化させる事。
 これにより俺は物体に触れる事が出来るようになり、他の人にも俺の姿を確認する事が出来る。
 ……もうひとつは、「俺が眼を変化させなくても俺を見る事が出来る人物」がそばに居る事。
 これに該当するのは……俺にとって、その年のキーパーソンにあたる人物達だ。
 ……この年で現在確認できているのは……魅音と大石さん。……それと……古手さんだな。
 俺が今車に乗っていられるのも、大石さんがそばに居るから……という事になる。
 そして、この状態で何か物体を持つ事が出来れば……俺の姿は誰の目にも映るようになるのだ。
 ちなみに、最初から俺の姿が見える人は、俺に触れる事も出来る。
 ……ざっとこんなもんか……。
 …………ややこしい事この上ないな。
 理想としては常に眼を変化させておく事だが、そんな事が出来れば苦労はしない。
 現在出来る方法としては……今、大石さんが隣に居るような状態で、何かを持ったり、乗せたりする事……。
 ……そうだな。
「大石さん。見込みついでに、指輪をひとつ買ってもらえませんかね?」
「……指輪をぉ? ……んっふっふっふ、前原さん。悪いですが私は――」
「勘違いされては困るので一応言っておきますが、俺にそういう趣味はありません」
「……んっふっふっふっふ。いいでしょう。安物でよければ買ってあげますよ」
「……すみません。たとえ一円でも、指輪なら何でもいいです」
 ……少し考えてみた。
 今、俺が身に着けるにあたって何が一番都合がいいか?
 俺はこれから柔術を習うんだ。……武器は必要ない。
 ならば、一体何が?
 …………指輪だ。
 指にはめるだけ。はい終了。
 身に着ける方法はシンプルこの上ない。さらに、重量もなく、移動の邪魔にもならない。
 これ以上ない条件だった。
「……何でもいいんですねぇ? ……それなら……これを差し上げましょう」
「………………?」
 大石さんはポケットをゴソゴソと弄って、リング状の何かを取り出した。
 ……指輪にしてはちょっと太い。
「こいつはブレスレッドについていたもんです。前に担当した事件でね? ブレスレッドにこんなものをいくつもつけて、それを手に巻いて殴りかかってくるというなんとも危なっかしい使い方をする若者をのしてやった時にいただいたもんです。……本来は提出するものなんですが、ひとつくらいならいいでしょう」
「……ありがとうございます」
 俺はそれを受け取り、指にはめた。
 ……ちょっと違和感があるが、邪魔になるほどではなかった。
「……これなら……大丈夫です」
「………………ふむ……。まぁ今は何も聞きませんよ。あなたにも何か事情があるのでしょうし……」
 こういう時、大人の人は深く追求してくれないので助かる。
 沙都子あたりだったら思いっきりはやし立てられ、「何ですの何ですのーっ」とか言ってきそうだ。

「さて……前原さんのほしいものが手に入ったところで話を戻しましょう。技術を磨く時間は先ほど言った通りです。次に、あなたが鍛える柔術の『種類』をお伝えしておきます」
「……種類?」
「えぇそうです。柔術……というより、柔道には大きく三つの種類があります。ひとつは『投げ』。ひとつは『固め』。ひとつは『当身(あてみ)』。『投げ』は文字通り、相手を投げ飛ばす技術。『固め』は相手の動きを封じる技術。『当身』は相手の急所を突いて敵を打ち破る、まぁ一撃必殺というところでしょうか」
「この三つですか……?」
「えぇそうです。……で、前原さんにまず聞きましょう。……あなたは、この三つの技術のうち……何を学びたいと思いますか?」
「……!」
 突然の大石さんの質問に、少し……とまどった。
 俺は、てっきり大石さんが決めてくれるものだろうと思っていたからだ。
 ……第一、大石さんだって……これらすべてが出来るほどに……。
「ちなみに言っておきますが……私はこれらを全て人に教えられるほどには習得しているつもりですよぅ? んっふっふっふっふ」
 ……俺の考えが甘かった。
 そうだ。俺に何を学びたいか、と聞いている時点で、「俺が何を学びたいと言っても教える自信がある」という事を意味する。
 ……人は別の人の事を外見や雰囲気から判断しがちだが……この事はその間違った概念を一掃してくれているようだ。
 俺は少し考えてから、自分が学びたいものを言う。

「……『投げ』と『当身』。……この二つです」
「二つぅ?」

 大石さんは驚いたような表情を浮かべた。
 ……無理もないか。 
 俺みたいな何も知らないちゃらんぽらんが、一つ一つを会得するのも難しいような柔術を、一度に二つも教えてくれ……など、無謀にもほどがある。
 ……だけど、戦闘におけるあらゆる状況下を判断すると……どうしてもこの二つが必要だ。
「面白いですねぇ。一体あなたは何故そう思ったのですか?」
「俺は柔道を極めるわけじゃないんです。……あくまで、俺達の『敵』である存在に負けないための特訓をするわけですよね。ならば、少し考えればこの二つに行き当たります。……まぁ、三つしかないわけですがね」
 俺は苦笑いを浮かべつつ、さらに続ける。
「まず、『投げ』。これは、相手を投げ飛ばす技術……そういいましたよね?」
「えぇ、いいました」
「……ですが、これには決定打が無い」
「……ほぅ?」
「『投げ』による攻撃は、どんな状況下でも臨機応変に対応しつつ出来る、というメリットがある。故に、特訓を受けた後の俺より実力が下である者と対峙する時に重宝する。一度投げ飛ばして気絶してくれるような相手ならいいんですが、相手もいくらかは鍛えているはずです。……一撃では相手を倒せないというデメリットがあります。……テレビでやっているような柔道でも、『投げ』を食らって一発KOってのはあまり無いですからね。第二試合目が、すぐに行われる。……故に、決定打が無い……と判断しました。……もちろん、それは使う人の技術によりますけどね」
 さらに言えば、どんな技にもこれは言える事なのだが、「技後硬直」が一番長い、というのがある。
 技を放ったあと、隙だらけになってしまうのだ。
 相手が一人ならばこれでもいいだろう。連発していけば、どんな相手でも倒せるのが「投げ」だ。
 だが、相手が複数の場合。
 一人に「投げ」を仕掛けている最中は隙だらけになってしまうために、その時に攻撃を受けてしまう。
 故に、「投げ」だけでは戦闘には不向きだと俺は思ったのだ。
「次に、『当身』です。おそらく、これが一番戦闘には向いています。敵の急所を的確に突く技術。これほど戦闘時において便利なものは無い」
「えぇそうです。相手の急所を的確に突けば、一発で倒れる事になりますからねぇ。ちまちまダメージを与えてスタミナを削るよりはよっぽどいいと言えるでしょう」
「ですが、一発一発は、敵の『急所を正確に突いていく技』となりますから、物凄い集中力が必要になります。相手をすぐに倒せる代わりに、自らの精神力がすぐに尽きてしまう。……だから、俺はこの『当身』という技術を、『投げ』と組み合わせてみようと思いました」
 ここで俺は、少し話が長くなる、という意味をこめて、大石さんをチラッと見た。
「……興味深いです。続けてください」
「……さきほど『敵が複数なら投げは不向き』というような事を言いましたが、実はそうじゃない。俺は、『投げ』は相手が複数でも十分通用する技術だと思います」
「どうしてそうお思いで?」
「投げる方向によるからです。敵が密集している場所へ投げつければ、いくらかの敵を道ずれにできます」
「……なるほど」
 ……そう。
 この『投げ』という技術、相手が遠距離の武器を使わない場合、非常に有効なのだ。
 鉄パイプやら金属バットやら刃物やら、とにかく近距離の戦い方をする相手は、『投げ』の動作の時に攻撃が出来ない。
 何故なら、味方に当たってしまうからだ。これは近距離で銃を持っている奴にも言える。
 『投げ』の動作中は、無防備になるのと同時に、『投げ飛ばす相手が盾になってくれる』という利点がある。
 これを利用しない手はないだろう。
 ……ならば、何故俺はさきほど「敵が複数だと不利」というような言い方をしたかと言うと、「必ずしも相手が近距離のみの戦闘スタイルで来るとは限らない」からだ。
 近距離で効果を発揮する武器を持っている連中と、遠くから狙撃するような連中が居る場合、『投げ』は非常に危険だ。
 なぜなら、投げた後の技後硬直で動けないところを狙撃される可能性があるからだ。
「……そして、『当身』を習う理由は、遠距離の武器を使う敵が立ちふさがった時のためです」
「…………ふむ……」
「この『当身』は、相手の急所を突いて一撃で倒す技術だ。だから、一瞬の間に敵を倒す事が出来る。だから、俺は『遠距離の武器を使う敵』に対してのみ当身を使うつもりです」
「なるほど。『投げ』でチンタラ銃を持った敵を相手にしているとすぐに別の狙撃手撃たれてしまうから、一発で倒してしまおう、という事ですねぇ?」
「その通りです。遠距離武器……極端な話、遠くから銃を使う(・・・・・・・・)敵はこの技で一撃で一人ずつ倒していく」
「……そして、近距離武器……まぁ、単純に近くで鈍器等を使う(・・・・・・・・・)敵に対しては投げを使って一掃する……と」
「そういう事です。俺達はおそらく、『一人きりでいる敵』とは戦う事はめったに無いと思います。敵は常に複数で俺達に襲い掛かってくるでしょう。……仮に一対一になっても、『投げ』と『当身』は十分に威力を発揮します。もともと、柔道の技は一対一を想定した内容ですからね」
「……その一対一を想定して作られた技を……どうすれば複数対一で互角以上に戦えるかを……あなたは分析したわけですか……。……いやはや……実に面白い……」
「そのくらいは想定できないと立ち向かえそうにありませんからね……。……相手はこの『オヤシロ様の祟り』を利用して殺人を犯そうなんて考えている奴らです。おそらく……戦闘訓練もつんでいるでしょうからね……」
「…………んっふっふっふ! いいでしょう!! 残り時間はわずかですが……鍛えてあげますよぅ!! その心意気とやる気、気に入りました!」
「……お願いします。俺は……足だけは引っ張りたくないですから」
 そう言いつつ、俺は大石さんに頭を下げた。
 これから柔術を教えてくれる……いわば師匠だからな。
 このぐらいの礼儀は俺だって思い出した。
「ついでに聞いておきましょうか。何故『固め』は必要無いと判断したんですか?」
「……『固め』は相手の動きを封じる技だと大石さんは言いましたよね? ……極端な話、『敵一人の動きを封じたところで大人数が相手だとまったく意味がない』っていう事ですよ。……先ほども言いましたけど、柔術は一対一を想定に作られたものですからね」
「……んっふっふっふ! 教えるのが楽しみになってきました」
「はは……」
「……お、ちょうどつきましたよ前原さん」
 大石さんはそう言い、車を止めた。
 何とかの法則(学校で習ったんだろうけど思い出せない)にしたがって俺の身体が少しゆれた。

「ここは……興宮署ですよね?」

 窓の外に見える建物に、俺は目を点にしながらそう尋ねた。
「えぇそうですよ。この中にはちゃーんと訓練できるスペースがあるんですよ。ちょっと狭いですけど、設備は……まぁありますからね」
「なるほど……」
 
 大石さんに促され、俺は車を降りて興宮署に入っていった。 
 ……何だか連衡されたみたいで嫌な感じはしたけど。

 署内の廊下を歩いていると、大石さんが突然、
「んっふっふっふ」
 と笑いはじめた。
 ……気味が悪い。ぜひともすぐにやめてほしいな。
 ……一体どうしたというのだろう?
「あぁっと、すみませんねぇ。……なんと言うのか、久しぶりに教えがいのある人に巡り合えたなぁと思いましてね?」
「はは……。でも、教えがいがあるかは判断しかねますよ」
「……そうですかぁ? 私にはそうは思えないのですけど」
 ……うーん、大石さんに言われると素直にほめ言葉として受け取っていいのか分からないんだよな……。
 ……あなたには悪いですけど、そんな事言われると身構えちゃいますよ、大石さん。
「……んっふっふっふ! 失礼ですよぅ、前原さん? 私がほめ言葉を並べると裏がある……って如実に表情が物語ってますよぅ?」
「……あっ……!」
「…………そうですねぇ。……特訓をするにあたって……最後に聞いておきたい事があります」
「……何ですか?」
「あなたは……どこまでの強さを望みますか?」
「…………?」
 一瞬、質問の意味が分からなくて戸惑う。
「まぁ目標みたいなものでしょうか。……どこまで強くなりたいか……って事ですよ」
「…………」
 ……どこまで……か。
 俺は別に世界最強になりたいわけじゃない。
 そんなもん、今……少なくとも、この特異体質である時に目指すものではないだろう。
 ……ただ、弱いままでいたいとも思わない。
 強くなければ、オヤシロ様の祟りの犠牲者を守るなど……世迷言もいいとこだ。
 相手は殺人鬼なんだぞ? 弱いままじゃ話にならない。
 ……だからといって、強さを求める事に溺れようとも思わない。
 俺が目指しているのは、祟りを未然に防ぐ事のみ。
 それができればそれでいいと……そう思っている。
 今の俺には、漠然な目標しかない。
 ……こんな生半可な気持ちで……いいのだろうか……。
「……すみません。今の俺にはよく……」
「そうですか。……目標がある方が上達にも影響すると思うんですが……」
「……なら……雛見沢の人を……守るために。……そのために、俺は強くなります」
「……ほぅ……」
「何故でしょうかね。あの村の人達には……初めて会うっていうのに、愛着がわくんです。……こう……なんつーのか……」
「………………いいですよ。それ以上は言わずともなんとなくですが分かりますから。……目標さえもってくれたのならばそれでもいいでしょう」
「…………」
「さて……この部屋です」
「……!」
 歩き話(というのだろうか?)をしているうちに、俺達はその「部屋」とやらに到着した。
 ……さーて……。こっからは俺自身の戦いだ……。
 …………なーんて、かっこいい事言ってみたけど。……一日ちょいで……力はつくのだろうか……。
「……おんやぁ? 珍しく……弱気ですねぇ」
「……!」
 やべ、また顔に出ていたか?
 ……この癖直さないと……。
「今さっき目標を立てたばかりでしょう。……あなたはそれを実現させる事だけを考えればいいんです」
「…………そうですね」
「わたしゃ教えるだけですからねぇ。……どこまで成長できるかは、最終的にあなたがどれだけ頑張れるかにあります。……捜査は引き続き私の部下がやってくれますから、あなたは自らを強くする事だけを考えてください」
「…………分かりました」
「……では……早速はじめるとしますか」
 そう言って、大石さんは扉のドアに……手をかけた。
 



  *     *     *





「……月の綺麗な夜ね……」
 ……圭一を見送ってからどれくらいの時間が経ったのか。
 今日は時計をあまり見なかったので分からない。
 とりあえず、両親がいない時にいただいたベルンカステル……だっけ。そのお酒をグラスに注いで、月を見ながらいただいていた。
 今日は綺麗な満月。それを見ながらお酒を飲むのも乙なものだ。 
 ……できればこの安らぎに酔いしれていたかったのだけれど。
「梨ぃ花ぁぁぁ!!!」
 ロケットの如く羽入が突っ込んできた。
 ……でも、戸棚に突っ込んでどうする気? まぁ、実態がないからすり抜けるだけだろうけど。
「五月蝿いなぁ」
「あぅ……」
 そんな滑稽な姿を見た後、多少の笑みを漏らしながらそう言った。
 もう、それまで適当なところをぶらぶらしてたくせにお酒を飲むとすぐに止めにくるんだから……。
 何で羽入はお酒に慣れないのかしら?

「り……梨花はいつもいつもお酒を飲もうとして駄目なのです!!! 自分はまだまな板ぺったんこのお子様だという事を忘れるななのです!!」
「さてキムチでも食べようかしら」
「あぅあぅあぅあぅ!!」
 
 むかついたので戸棚から特性キムチを取り出して、パクリ。
 もちろん、それを入れている容器には「死刑用」と書かれた紙が張ってある。 

 キムチをパクリ。ついでにお酒も口に入れる。
 え? 食材への冒涜じゃないわよ? おいしくいただいているから。
 尤も、目の前のあぅ神様はそうは思わないみたいだけど。

「で、羽入。あんたどこ行ってたのよ」
 ごくんとキムチを飲み込んでから聞いた。
 羽入は昼からずっといなかったから。 
「あぅあぅ。梨花にびっぐにゅーすなのですよ」
「私に?」
「あぅ。実は、僕が興宮の町で梨花のお酒瓶をどうにかして破壊し梨花をあぅあぅさせる算段を組んでいながらふらふらしていたら、なんと圭一が居たのですよ」
 もう一度キムチとお酒を口に入れた。
「あぅあぅあぅあぅ」
 くすくす、面白い。
「ふーん」
 内心微笑を浮かべつつ、私は興味のなさそうな声で私は答えた。
 別に、今圭一が居たって何ら不思議じゃない。

「……り、梨花は圭一がいても驚かないんですかぁ?」
「何で驚かないといけないの。去年も一昨年もその前の年も会ったじゃない」 
 昭和53年、54年、55年。そして、今年。
 いずれも、圭一とは顔をあわせている。
 その辺りの事は何が起こっているのかわかっているつもりだから、この時代に圭一がいても驚かない。
 第一、今日会ったし。
「……? 三年前には会いましたけど……それ以降は僕は会っていないのですよ?」
「………………」
 私は無言でキムチをほお張った。
「あぅあぅあぅあぅ!!! 冗談で言っているのではないのです!!!!」
 羽入はこれをすると何をたくらんでいても白状する。
 ……つまり、嘘じゃないみたいね。
「会ってないって、どういう事? 少なくとも、昭和54年……一昨年は、私とあんたと圭一、三人になった時があったじゃない」
「あぅ? 梨花は何を言っているのですか……?」
「……あんた……おかしいわよ? 一昨年、確かに羽入は圭一と顔をあわせているわ。圭一だって、あんたに話しかけようとしていたし」
「し……失礼な……! お……おかしいのは梨花の方なのです……! 一昨年……梨花は誰も居ない場所を向いて、ずっと独り言を言っていた時があったのです……!!」
「はぁ……? 私はそんな事した覚えは無いわよ?」
 ……どうも、お互いの主張がかみ合わない。
 羽入は、圭一にはここ二年、顔をあわせていないと言う。
 でも、私は羽入と圭一が顔をあわせたシーンを見ている。
「……?」
 ……何がどうなっているのよ……。
「あぅあぅあぅ……」
 私は、羽入をじぃっと見てみる。
 ……特に変わったところは……ないみたいだけど。
「羽入、圭一を見た……って言っていたわよね」
「……言ってないのですよ」
「…………はぁ? あんた、さっきそう言ったじゃない」
「僕はそんな事言ってないのです。僕は、圭一が居たと言ったのです」
「…………どういう事よ」
「圭一の声が聞こえたのですよ。傍には大石も居て、何やら口論をしていたのです」
「………………」
 
 圭一の姿を見てないけど……居る事は確認したって事……?
 どういう意味よ?
「………………」
 羽入はだんまりを決め込む。
 その表情には、「しまった」というような感情が見え隠れしていた。
 それを見て……直感する。
「……羽入……あんた……」
「…………あぅ」
「……視力……低下しているわね……!?」
「………………」
 羽入はそれ以上、何も言わなかった。

 ……そうだ。
 一昨年……羽入は圭一の姿を確認できなかったんだ。
 視力の低下と……あの時の圭一の特異体質。
 今はだいぶ元の状態に戻りつつあるけど……。……あの時は私以外に見えるような状態じゃなかったんだ。
 ……そういえば……あの時の羽入は以上におびえていた。
 ……あの時……幽霊みたいな体質の圭一の声も聞こえていなかったのだとしたら……。
 ……圭一は……羽入にとって「見えない何か」だったんだ。
 だから……おびえていた……。

 そういえば、さっきも……羽入は私じゃなくて戸棚に突っ込んだ。


 …………見えてないんだ。


「あんたどうして黙ってたの!!」
「…………あぅ、だって……」
「……もう……漠然とした風景しか見えなくなっているんじゃないの!? 建物全体を見て……それが何か……ようやく分かるくらいにしか……!!」
 ボンヤリとする視界の中で……建物全体の像を見て、これはどんな建物なのかを見分けている。
 ……それくいに……低下しているんだ……。
 私の声と……古手家本宅の全体像で、やっとここまで帰ってきた……っていう事になる……。
 声だけを頼りにしたから……さっきは突進する場所を間違えた……。
「……もう……ほとんど見えないのです……」
「……何でこんな事に……!?」
「……分からないのです……」

 ……そんな馬鹿な……。
 こんなの……初めてだわ。羽入の視力が低下するなんて……!!
 一体……羽入の身体に何が起こっているっていうのよ……!?
「あ……梨花!?」
 私は居ても立ってもいられず、立ち上がって走りだした。
「どこに行くのですか!? 梨花!」
「祭具殿よ!! あの中の書物に……何でこうなったのか記してあるものがあるかもしれないでしょ!!」
「で……でも祭具殿はまだ重いカンヌキがついているのです……! 梨花には……!!」
「構うもんか!!! あんな物……何とかしてみせるわよ!!!」

 ……こんな時にそんな事を言っている場合ではない。
 カンヌキが何だっていうのよ。
 あんた、そんな事心配するより自分の目の事を心配しなさいよ!!!

「……お父さん!!!」
 私は、彼らの部屋のドアを開けて、叫んだ。 
「……梨花。どうしたんだ?」
 既に布団の中で眠っているお母さんと、本を読んでいるお父さん。
 ……この光景は、今の私にとって好都合……!
「祭具殿に入りたいの! お願い、カンヌキを外して!」
「……祭具殿に? どうして?」
「いいから!! お願い!!!」
「理由を言いなさい。納得のいくものでない限り、祭具殿の扉を開けるわけにはいかん」
 ……うぐ……。
 ……やっぱり、古手家の党首か。
 祭具殿を守る。……それが、この一族の役目だもんね……。
 たとえ古手家の血を受け継いでいるのではないのだとしても、古手の苗字を名乗るからにはちゃんと仕事をこなそうとしているんだ……。
 ……でも、私も引くわけにはいかない!!
「どうしても!! どうしても入らないといけないの!!」
「だから、その『どうしても』の理由を教えなさいと言っているんだ!」
「そんな事はいいの!! 早く開けて!!」
「駄目だ!! 理由も無いのに祭具殿に入れるわけにはいかない!!!」

「どうして!!? どうして分かってくれないのよ!!!!」

「理由を言いなさいと言っているんだ!!!」



 ……いつの間にか息が荒くなっていた。
 突然大声を出されたからか、お母さんも飛び起きてしまった。
 一体何が起こっているのか、不思議そうな顔と驚いた顔の入り混じった表情で、私とお父さんを見ている。

「……梨花。どうして祭具殿に入りたいんだ?」
「……説明しても信じてくれないのです。だから説明しないのです」
「信じてやる。だから、話なさい」
「嫌だ!!!」
「どうしてだ!!!!」
「嫌なものは嫌なの!!!!」
「――梨花……!!」

 それだけ言い残して……私はまた、走っていた。
 涙をポロポロと流しながら、祭具殿の方へと足を向ける。
「……あぅあぅ……、梨花……」
「……言ったって……信じてくれない。そればかりか、お母さんはあんたの事をまたうす気味悪がって、軽蔑の言葉を並べてしまう」
「…………」
 小さい頃、私が羽入の事をお母さんに言ってみた事があった。
 ……そしたら、お母さんは……羽入の事を罵った。
 羽入は何も悪くない。何か悪い事をしたわけじゃない。
 ……それなのに、「言葉」という鋭利な刃物を……羽入に突き立てた……!!!

 ……今でも……忘れた事は無い。
 あの時の……羽入の顔を……。

 あと少ししか一緒に過ごせないのに……最後の最後でケンカをしたくない。 
 でも、羽入の事を嫌に言ってほしくない。
 ……二つの思いが……私の中でぐちゃぐちゃになって……。
 ……やりきれなかった。

「…………」

 羽入は私のスカートのすそをちょんと持って、無言で一緒に来てくれていた。
 ……その行為が、何だか……悲しくて。また涙が溢れ出す。

 ……いつも一緒に居てくれると思っていた。
 その、羽入が。
 ……私の一部を握っていないと……ちゃんとついてこれない。
 それほどまでに、羽入の視力は低下していたのだ。
 
 何故こんな事が起こったのかわからない。
 確かめなくちゃいけない。……この、私が。

 古手家八代目党首にあたる……古手梨花が……!!!

「……梨花……」
「……ふふ……。おかしい話よね……。一度舞台を降りた私が……また登ろうとしているなんて」
「…………」
 羽入は何も言わない。
 ……それでもいい。
 
 一度は降りた舞台だけれど。
 ……また、あがる必要が出てきてしまった。
 こんな事は初めて。……イレギュラーだ。
 でも、それはむしろ喜ぶべきなのだ。……羽入には悪いけど……。
 同じ事の繰り返しは、結局繰り返しでしかない。
 最後には、同じ結末を迎える。
 ……でも、今回は違う。
 圭一が過去にやってくる世界は、それだけでも珍しい。
 ……そして、よく考えれば……この世界は何から何まで新しいのだ。
 
 ダム戦争が圭一の手によって無事に幕を閉じた。
 そこまではいい。前にも同じ景色を見たことがある。
 でも、それからが……微妙に……違うのだ。
 
 オヤシロ様の祟りの……一年目。
 本来、どんな世界でも行方不明になってしまう……ダム工事現場監督を殺害した加害者。
 その男は……今回に限り、何故か圭一によって一緒に未来に来てしまう、という事態に発展している。(死体だったわけだけど)
 これは今までに見られない兆候だった。
 でも、この男が「鬼隠し」にあった事に変わりない事になっていた。
 
 それから、次の年。
 沙都子の両親が転落する場所が……違った。
 結局この年もオヤシロ様の祟りとなったわけだけど。
 ……でも、少しずつ……変わり始めている。

 ……そんな簡単な事に……今頃気づいた。
 そんな自分が、少し腹が立った。
 ……これは……何か、予感がする。
 
 私は……昭和58年の壁を……抜けられる……!!!

 少しずつ違う世界。
 そして……それは、羽入の視力を低下させる、といった、今までにはまったく見られなかった世界を生み出した!

 それを……今になってようやく気づく事が出来た!
 これは、以前私が通った世界とは違う……!
 
 オヤシロ様の祟りに対する、誰かの「無意識のうちに働く強い意志」を、跳ね除けようとしている人物が居るからだ……!!!
 あなたが……世界を変えているのね……!?

 ……圭一……!!!

 ……そうと分かったら……じっとしていられるわけないじゃない……!!
 ……今更だけど……!! 私は……舞台にもう一度上がるわ!!

 この、羽入に起こった現象は……きっと、圭一の変えた世界が私に対してたたきつけた挑戦状……!!
 ここで私があきらめたら、私も、圭一も………………羽入も……!!
 きっと悲しい思いをする……!!!

 もう、十分よ。
 
 これ以上、悲しい思いをさせないで……!!!

 これは私に訪れた転機であり、羽入の危機でもあるんだ……!!
 羽入は……きっと私に悲しい思いをさせないためにこの事を秘密にしてた。
 いつもは悪態をついてあぅあぅ言わせてるけど……あんたが危機にさらされているのなら……喜んで私は盾になってやるわよ!!!
 喜んであんたを救うために手足を動かしてやるわよ!!!
 秘密にする事が私のためだなんて思わないで!!!

 
 私達が超えられなかった壁を乗り越えるために……!!
 圭一のくれたチャンスを無駄にしないように……!!
 そして何より……!!!


「羽入……!! あんたを助けるために……!!」
「……!」
「私は……戦う……!! 運命なんかに屈したりしない!!! 圭一は……この厚い壁を……打ち破ろうと必死になってくれているんだから!!!」
「……梨花……」
「私達だけが指をくわえて見ているなんて出来ないわよ!!! 私はこのチャンスを逃そうという気は毛頭ないわ!!」
「…………」
「……あんただって、薄々感づいているんでしょ。……この事態は……世界が大きく動いている証拠……! そして、あんたの目がどうしてそうなったのか、調べ上げて……暴く事こそが私達に出来る抗い方なのよ!!」
「……あぅあぅ……」
 羽入は相変わらずあぅあぅとしか言わない。
 でも、きっと分かっている。
 羽入は恐れているだけなんだ。……イレギュラーな出来事だからこそ、何が起こるかわからない。
 ……でも、私はそうは思わない!
 私は、羽入の目だって元に戻してみせるし、この世界だって乗り切ってみせる!!!
「……梨花。僕は……どうすればいいのでしょう……?」
「…………!」
「梨花の言いたい事は分かります。この事態は、間違いなく止まっていた僕達の世界が……時間が動いている証拠……! それは喜ぶべき事なのです……! …………でも……!! このままいけば……僕は光を失います……」
「……羽入……」
「僕は……この事態を素直に喜ぶ事が……できない……」
 ……羽入の……悲痛な私の耳から入ってくる。
 …………確かに、羽入は光を失ってしまう。……でもね、羽入。私は……思うのよ。

「……圭一が居る限り……。……私達の光が失われる事はないのよ!!」

「……!」
「羽入が光を失う時は、私も光を失う時よ!! 私達は一心同体。私は、圭一が希望の光だと信じている!!!」
「……なら……僕は光を失わずに済むのですか……? 圭一は……真っ暗になっていく僕達を……照らしてくれるというのですか……?」
「その通りよ……! このまま何もしなかったら、私達はまた袋小路へ行き着くのよ!? そんなのは絶対に嫌。だから、調べるの!! 圭一が再びあんたに光をともしてくれる時に……そのお手伝いが出来るように!!」
「――!!」
「原因が分かっていれば、治し方だって分かるはずよ! あなたの視力が落ちている事。これは事実で変えようがない!! なら、私達に出来る事で必死にあがいてやろうじゃないの!!!」
「……僕達の……できる事……」
「私を信じなさい!! 圭一を信じなさい!!! 私も圭一も、あなたを見捨てたりなんて絶対にしない!!! たとえその目に光を失ったって、絶対に照らし続けてあげるから!!」
「…………ぅぅ…………! で……でも……!」
「否定の言葉を並べるのは全てが終わってからにしなさい!! 私は私自身のために。……そして……羽入の光を守るために!! 今、出来る事を死に物狂いでやってやるわよ!!!」
「……梨花は……どうしてそんなに強くなれるのですか……? ……僕には……僕には……」

「…………羽入が…………居るからよ……!!」

「――――え」

「羽入が居るから私は強くなれるの。あんたが傍であぅあぅ言ってくれるから安心できるの! みんなみんなあなたのおかげなの!!!」
「――っ」
「だから恩返しくらいはさせてちょうだい! 私はあなたを真っ暗な世界になんて連れて行かせない!! 私だけでは無理でも……圭一が居る!! 私達が絶対に照らしてみせる!!!!」
「……梨……花……」
「あきらめるのはまだ早いのよ!!! 前に進みなさい!! たとえ真っ暗な世界になったって!!! 勇気を持って一歩を踏み出さなければ何も始まらないの!!!」

 絶望の底に居た。
 羽入と一緒に、ガタガタと震えていた。
 真っ暗な世界で、既にしかれたレールの上を歩くしかなかった!
 ……そんな……予定調和を……圭一は打ちこわしつつある!!
 彼は光を届けようと必死になって頑張っている!!!
 私達が……今行動を起こさないでどうするのよ!!!

「あんたがさっき言った質問! 何をすればいいの、だったわね! 簡単よ!!!」
「……」
「信じなさい!! 私を!! 圭一を!! その先には……まばゆいばかりの光が満ちているんだから!!!!」
「――――っ!!!」
 
 言いつつ、私は足を止めない。
 靴を履いて、祭具殿へ向かう……!!

 羽入は黙っている。
 ……でも、それでいいの。
 今は悩みなさい。私もかつて経験した。
 あきらめて、世界に興味を失った時に経験したの!!
 圭一が……圭一が世界をいっぺんさせたの!!
 圭一は最後まであきらめなかった。レナも救って沙都子も救った!!!
 あきらめない心こそが……私達を救うの……!!!
 私は……残念だけど、圭一が沙都子を救った世界で私を殺害した人物を覚えていない。
 ……でも、あきらめなければきっと奇跡は起こせるの!!
 圭一はそれを証明しているの!!!!

 だから、羽入!!
 あなたもあきらめるのを止めなさい!!!
 十分に悩んで、悩んで、あきらめる事のおろかさを知りなさい!!!

 それを知った時に……私達は未来にたどり着けるのだから……!!!!

「……梨花……」
「…………」
 私は無言で返事をする。
 羽入の瞳には……あきらめの念は……見られない。
「僕も……戦います……!! 今まで……ずっと怖かった。戦う事で、何かを失うんじゃないかって……ずっと怖かった!」
「…………」
「でも……怖がっているだけじゃ……永遠にたどり着けない……!! 僕達が目指しているのはそういうところ……!!」
「そうよ!! そのためには戦おうという意思がいるの!! 私は知っている。運命と戦おうという意思がどれほど神々しく、美しいものかを!! 圭一に教えられた!!!」
「だから僕達も戦う!! かつての圭一がそうしたように!!!!」

「えぇ!! その通りよ!!!!」





 そう言った時、私は祭具殿の中に居た。
 
 ……沙都子が昔祭具殿に入り込もうとして、圭一が止めさせた……あの入り口。
 私はそこから、祭具殿へと侵入した。

 その後、月明かりを頼りに中にある書物を見つけ出した。

「この中に……どこかに記されているはず。……絶対に見つけだすわよ」
「……僕は見守る事しかできないと思っていました。……でも、祈ります。必ず、この状況を打破できる何かがある事を……!!」
「十分心強いわ! 神様の祈りがあるんだからね!」

 私は気合を入れなおして、積まれていた書物に手を伸ばした。





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