其の二【幕開け】





「……っ!!!」

 ……朝。
 それは、とてもさわやかな空気が迎えてくれる、一日の始まり。
 ……の、はずなのだが……!!!!

「くぉおらぁぁあぁあぁ!!!!」
「みぃ〜☆」

 おのれぇ……!! また布団に潜り込んできおったなぁ!?
 さわやか台無し、朝っぱらから無駄な汗を流させないでくれ、古手さん!!!
 昨日の余興さえも台無しだ……。
「まだ昨日の余興が覚めませんか?」
 ……なんていうか、絶対俺の心読んでるだろ?
 そのありえんほど的確なタイミングは最早神業だ。
「たーった今覚めたよ。だーれかさんのおかげで……な……」
 はぁ、とため息をついて古手さんをジト目で見てやる。
 ただ、本人そんな事は塵ほども気にしていないようで、相変わらずにぱ〜☆と笑っていた。
 ……昨日の二の舞だけはごめんだったので、俺はそそくさと顔を洗いに外へと出た。

 扉を開けると、そこには先ほど台無しにされた爽やかな朝があった。
 まだ強すぎず弱すぎず、適度に暖かい日差し。
 朝の爽やか代表、小鳥のさえずり。
 そして何より、新鮮な空気。
 雛見沢、やっぱりいいところだよな。

 俺はうーんと伸びをして、たっぷりと空気を吸ってやった。
 ……よし。調子はすっかり戻ったぞ。

「みぃ☆ 圭一圭一」
 ……と、思ったのだが……。
 うぅむ、勘が鈍ったのかな……。背後を許してしまう上に……抱きつかれてしまうとは……。
「何だ?」
「……雛見沢は、本当にいい所なのですよ」
「……」
 ……どんな風にからかわれちまうのかと冷や冷やしたけど……。
 ……いらん心配だったか。
「ああ。そうだな」
 俺は洗面台へと向けていた足を一旦止め、それを別の方へと向ける。
 そして、俺達は何度も見てきた……雛見沢を一望できる高台へ、やってきた。
 綿流しの後だけあって、皆昨日はしゃぎ疲れたのか……それとも朝がまだ早いだけなのか、村はとても静かだった。
 心地よい風に吹かれながら、俺達はしばらくその景色を眺めていた……。

「……ん……?」

 ……そこで……俺は、あるものを見つけた。
 ……あれは……大石さんの車じゃないか。……こんな朝早くから……どうしたっていうんだろう……?
 何故かは分からない。……だが、俺はそれに……不安を感じた。

 ……大石さんが……こんな朝早くから……綿流しの日の翌日に向かいそうなところ……。
 ……俺は、車が走る経路を……つーっと、目で……追ってゆく……。

「……まさか」

 信じたくはなかった。
 だが、車は……明らかに北条家へと向かっていた……!!!

 ……どういう事だ……!?
 昨夜……俺と悟史があの現場を離れるまで……誰一人として俺達の周りには居なかったはずだ……!!
 身を潜めていたのだとしても……俺なら気配で分かる……!! その自信だってある……!
 あの現場には、俺と悟史以外に生きた人間など居るはずがなかったのに……!!
 
 何故、大石さんが……綿流しの翌日に北条家へ向かわなけりゃならないんだよ!!?

「どうしたのですか……?」
「……悟史が……悟史が危ねぇ!! 悪い、古手さん!! 俺、北条家へ行ってくるよ!!」
「あ……!! け、圭一……!!」

 くそったれぇぇえ……!!! 大石さんめ……!!!
 どこまで……。どこまで俺達の邪魔をすれば気が済むんだよ……!!?
 ……眼は……く、駄目だ、昨日長時間使ってるから今は使わない方がいい……!!
 俺自身の足で向かうしかねぇ! ……畜生っ!!

 ……それにしても……疲れないな、全然……。
 さっきからずっと走り続けてはいるが、どういうわけか全然疲れない。スピードも、いつも感じているより多少上がっている気がする。 
 ……そういや、ここ最近はずっと走りっぱなしだったな。三年目といい、今年といい……。
 そのせいか、スタミナも随分ついたようだ。……俺は順調にスピードを上げ、北条家へと向かって行った。

 
「ハァ……ハァ……」
 それから数分が経ち、俺は北条家前の小道までやってきた。
 それから、すぐにでも悟史のもとへ行こうと思ったのだが、先に来ていた大石さんの車が……何故か、人目を避けるように……林の中に止められているのを発見した。
 それを疑問に思った俺は、木の陰に隠れながら少しずつ近づいていく。……すると……中には大石さんが一人でたばこを吸っていた。
「……?」
 ……何だ……? 何を考えてるんだ……?
 大石さんは悟史に用があったんじゃないのか? ……何で、こんな所に……隠れるように車を止める必要がある?
 ……! ……大石さん……なんだ、独り言か……? 口を……動かしている……。
 ……何をつぶやいている……? ……くそ、分からない……。
 ……くそったれ……。一体……何がどうなってるんだよ……?

 ……その時。
 俺の、肩に……手が置かれる感触……!!! だ……誰だ!?
「……あぁ、やっぱりそうだ。前原さんじゃないですか」
 聞き覚えのある声。……俺は、ゆっくりと振り返る。
 ……そこに立っていた人物は、振り向いた俺に、やんわりと笑った。
 ……この、人は……。
 四年前……俺達が誘拐犯から大臣の孫を助け出した時、世話になった……。
「……か……監督……」
「久しぶりですね。こんな所で、一体どうしたんです?」
 誰かと思ったら、監督じゃないか……。再会するのは、随分と久しく感じる。
 ……どうしてだろう? 監督にとっては四年でも、俺にとっては数日しか経ってないはずなのに。
 ……まぁいいか。それは今考える事じゃない。
「……監督、あれ……見てください」
 俺は大石さんの車を指差して、監督の視線をそちらへ向けさせる。
 それを見た監督は、やわらかくしていた表情を一気に真剣そのものなものへと変貌させた。
「……大石……さん……。どうして彼が悟史君のところに……!!?」
「分かりません。……でも、こんな所で隠れるようにして車を止めてるなんて……明らかにおかしいですよね……?」
「……ひょっとしたら……待ち伏せかもしれませんね……」
「待ち伏せ?」
「えぇ。ここは北条家へ続く一本道で、そこに隠れるように車を止めている、という事は……誰かを待ち伏せている可能性が非常に高いです」
 ……待ち伏せ……。……やはり……悟史っ!!?
 まだ綿流しの翌日だ……。叔母の死体が見つかったのが昨夜の深夜だとしても、悟史を……他の警官ならともかく、大石さんが直接マークするなんてありえない……!
 情報が圧倒的に不足しているはずだ……! 
 死体の鑑定が終わり、あれが叔母だと断定できたのだとしても……大石さんが自ら、一日しか経っていないにも関わらず出てくるなんて……よほどの確証でもない限り無理だ……!!
「……く……」
 ……大石さんは……狙いを悟史にしぼっているってのかよ……!? 

「……前原さん。私は、これから悟史君を野球の試合に連れていくためにここに来ました。……よろしければ、悟史君と沙都子ちゃんを連れてきてもらえますか?」
「沙都子も連れてくるんですか?」
「……大石さんが何をするか分からない以上、一人にはしない方がいい。一緒に連れていきましょう」
「……はい」

 ……確かに、大石さんは敵に回すとこの上なく嫌な手を使ってくる。
 悟史が居ない間に、沙都子を尋問……なんて、いかにも大石さんがやりそうな事だった。
 俺は監督に言われた通りにするため、歩みをさらに進めた後に北条家の呼び鈴を押し、ユニフォームを着た悟史と対面する。

「やあ、圭一。どうしたの?」
「あ、ああ。野球、今日……試合なんだろ? どれ、この圭一様が応援してやろうと思ってな」
「む、むぅ、いいよ応援なんて……。逆に打てなくなっちゃうから……」
 悟史は恥ずかしそうにしながら頬を人差し指で掻いた。
 応援されて打てないって、そりゃどういう道理なんだよ? 俺なら応援されればされるほど燃え上がるけどなぁ。
 ……緊張するとか、そんな類なのか?
 なら、いい機会だ。それを克服するくらいの心構えで試合に臨めばいいじゃないか。
「実は、さっきそこで監督と会ったんだ。車で送っていくっていうから、ついでに俺も連れてってもらう事にしたんだよ。だから来るなと言っても無駄だ」
「むぅ……」
 またまた悟史は頬を掻く。そんなに来てほしくないのかよ。
 ……まぁいい。とにかく、悟史と沙都子を連れ出さないとな。
「にーにー? どなたがいらしたんですのー?」
 ……と、丁度いい。上手く話しをまるめて作戦実行しちまおう。
「おーい、沙都子ー。俺だ、圭一だー!」
「あら、圭一さんでしたの。どうしたんですの?」
「ああ、さっき監督に会ってな。悟史連れてきてくれって言われたから来たんだよ」
「へぇ、それはご苦労さまですわ。……そうだ、にーにー、お弁当できましてよ。これを食べて、バンバン打って勝ってくるんですのよー!」
 沙都子が手に持っていた弁当を悟史に私、無邪気に笑った。
「む……無理だよー……」 
 対して悟史は、力なさそうに返事をする。……ちっとは人の期待にこたえる返事をしなきゃ駄目じゃないか、悟史。
「無理じゃないって! 沙都子も応援に来てくれるそうだからな!」
「え……えぇっ!?」
「なな、何を勝手に決めてますのー!?」
「せっかくにーにーが活躍するのに己の目でそれを見届けないつもりか? 随分と冷たい妹だなー沙都子はー」
 ちなみに、最後はかなりの棒読みにしてみた。いかにもわざとらしく。
 沙都子も俺の意図に気づいたらしく、ニコリと笑って口を開いた。
「そんな事ありませんでしてよ〜! にーにー、私も応援に行きますから絶対勝つんですのよー!」
「むぅ……」
 それを聞いて、悟史はさらに困った顔をする。何でも表情に出すタイプなんだな、悟史は。
 沙都子はと言うと、ご機嫌になって出かける準備だ。
 どうやら、試合観戦に行きたいのは山々なのだが、悟史にストップされてたようだな。
 それで、俺がちょうどよく現れ、一緒に応援に行かないか、と間接的に伝えてきた。
 これは好都合と、すぐに便乗してきたわけだな。
 俺はもう一度沙都子を見た。……一点の曇りも無い、笑顔。
 ……こいつら本当に兄妹なんだなぁと改めて実感だ。

 ……それにしても、叔母が突然消えた事に関して、悟史はともかく……沙都子、あまり気にしていないようだな。
 勿論不安もあっただろうけど……でも、帰ってこなかった事に、多少の安心をしたのだろうか。
 ……まぁいい。俺はそれが一番心配だったので、少し安心だ。

 しばらくすると、沙都子が準備を終えて玄関へとやって来た。
 悟史も覚悟を決めたようで、バットとグローブを手に、真面目な顔つきになっていた。
 ……うし! 出陣だな!

「監督、二人を連れてきました」
「ありがとうございます。……おはようございます、悟史君、沙都子ちゃん」
「おはようございます、監督」
「ですわ」
 
 監督は乗ってくれ、と言い、車に鍵を開ける。悟史は悪いからいいよと言っていたが、結局お言葉に甘える事にして、次々と乗り込んでいった。
 その後、車はスピードを上げていき、雛見沢の道をどんどん進んでいく。
 山道へとさしかかり、木漏れ日が道へと差し込んでいる所へ出た。俺は、車についていた時計を見る。
 ……午前九時。俺が目を覚ましてから、随分と時間が経っていた。
「監督、試合は何時からあるんですか?」
「十時からですよ。この分なら九時半頃には着くでしょうから、メンバーの皆にウォームアップ等をしてもらおうと思ってます」
 ……て事は、30分の時間があるって事だな。
 それだけあれば……どこかの公衆電話から連絡する事も出来るだろう。
 ……一時はどうなる事かと思っていたが、結果オーライだしな。古手さんにはちゃんと連絡入れておかないと……。
 俺は窓を開けて、そこから吹き込む風を頬杖をつきながら浴びていた。
 ……だが、監督がバックミラーをにらみつけているのがふと目に入り、俺もつられて後ろを見る……。
「……?」
 ……後ろには、車が一台走っていた。
 俺には、どうって事のない……普通車に見える。あれが……どうかしたのだろうか……?
 再び視線を前に戻すと、監督は悟史と楽しそうに話をしていた。
 ……まぁ……気にする必要は……無いよな。後ろに車が走ってる事なんて珍しい事でもないんだし……。
 俺はふぅ、と一息つき、話の輪へと入っていった。

 それから、またしばらくして。
 俺達は、無事興宮のグラウンドへとやって来た。
 駐車場に監督は車を止め、それから、俺達は車から降りた。
 悟史は野球道具を下ろして、素振りをするからと言って、グラウンドの方へ駆けていった。沙都子も、それについていく。
 監督はというと、そんな悟史と沙都子を見ながら、嬉しそうにグラウンドへ行く準備をしているのであった。
 俺は、鼻歌を歌いながら荷物をおろしていた監督の下へ行き、
「監督、俺、ちょっと電話使ってきますね」
 古手さんへ連絡をする事を伝える。
「そうですか? 公衆電話は、そこをまっすぐ行った所にありますよ」
「ありがとうございます」
 俺は、ポケットに手を突っ込んで財布を取り出し、公衆電話へと向かった。
 監督に言われた通りに歩いていくと、そこには緑色の公衆電話があった。俺は財布から十円玉を取り出して、コインの投入口にそれを入れた。
 それから番号を押して、じっと古手さんが出るのを待つ。
 プルルルル……プルルルル……。
 ……プルルルル……。
「……なかなか出ないな……?」
 プルルルル……。
「……」
 それからしばらくしても、受話器が取られる事はなかった。
 俺は、返ってきたコインを手にとって、もう一度投入口に放る。
 ……プルルルル……。
 ……結局、古手さんは……出なかった。
「……????」
 どうなってるんだ? 何で……古手さんは出ないんだよ?
 ……外出してるのか……?
 
 ……それから、俺は何度も、何度も電話をかけた。
 そして、コール音を……ずーっと……聞いていた。
 ……だけど、古手さんは……出なくて……。

 ……しばらくして、監督が俺を呼びに来た。
「前原さん、もう試合が始まりますよ」
「あ……、は、はい……」
 結局……古手さんとは話せなかった。
 ……それだけの事なのだが、何故か不安になる。
 綿流しの祭りは終わった。……そして……誓い。……一つ目のものは……護りきれなかった。
 ……その……罰だというのだろうか。
 不安は大きくなるばかりだったが、俺は監督と一緒にグラウンドへ行く事を選び、電話から離れて行った。

 ……大石さんの言葉が、頭の中をよぎる。



 ……祭りの終わりは、惨劇の始まり。



 ……まだ、終わってないのか……。
 ……幕は……まだ……。

「前原さん? どうかしましたか?」
「あ……すみません。何でもないです」
「……それなら……よいのですが……」

 監督は、心配そうに俺を見ていた。
 でも、考え事をしていただけだから、平気だと言い、俺は走ってグラウンドに入っていく。

 そこには、雛見沢ファイターズのユニフォームを着た面々と、興宮タイタンズのユニフォームを着た面々がおり、それぞれが試合前の練習をしていた。
 応援に来ていたはずの沙都子も、彼らにまじって野球をしている。……なんだそりゃ。沙都子って野球得意なのかよ?
 俺はキョロキョロと辺りを見回し、悟史を探す。
 そして見つけた悟史は、金属バットを傍らに置いて険しい顔をしながら前方を見つめていた。
 普段の彼に似合わない表情に、何があったのかと思って俺は近づく。
「……悟史? どうしたんだよ。そんな険しい顔してさ」
「あ……圭一……。……ううん、何でもないんだよ」
 悟史は表情をすぐにいつものそれへと変え、苦笑いをしつつ俺へと振り向いた。
 ……本人はああ言ってるが、あの表情見たらそうは思えない。
「嘘をつくな。……何でも言ってみろよ。俺は、お前の話す事なら何だって信じるぜ?」
「……」
 それから、悟史はしばらく黙っていた。
 言うか、言うまいか、悩んでいるようだった。
 俺は何でも信じると言っているが、本当に信じてくれるだろうか。笑い飛ばされたりしないだろうか。……そんな感じだった。
「悟史。……言ってみろよ。そんなんじゃ、試合にも集中できないだろ? 俺は、お前の話しを信じるし、笑ったりもしないさ。だから、言ってみろ」
「……うん……。……実は……昨日の深夜、なかなか眠れなくて、夜中に外に出てみたんだよ」
 ……まぁ、祭りが終わった後だったし、興奮冷めずに眠れないというのは分からないでもないが。
 だからと言って、あんな表情しなきゃならないなんて事には、俺には到底結びつかなかった。
「それでね、まだ続いてるんだ」
「……? 続いている……?」
「圭一は……信じてくれないかもしれないけど。……足音が、ずっと聞こえてくるんだよ。ずっと……ずぅっと……」
「足……音……?」
「……それだけじゃない。……視線も感じたんだ。背後から、じーっと……見つめられているような、妙な感じ……。圭一は……そんな経験ないかい?」
 足音に……視線だと……?
 確かに、怖いとは思うけど……。
 ……いや……悟史がそう言うのなら、そうなのだろう。
 足音がずっと聞こえてきて……視線も感じる……。……悟史の様子から、その足音と視線の主も分かっていないようだ。
 ……なるほど……、それなら……納得だ。
 今、この瞬間も……足音が聞こえやしないか、視線を感じる事が無いか……気になってるんだな。
「……悟史。安心しろ。足音が耳障りだってんなら、俺がそれを発してる奴を見つけ出して叩きのめしてやる。視線も同様だ」
「……」
 悟史は俯いて何も言わなくなる。……こりゃ……相当まいってるな……。
 無理もない。……昨日は……あんな事を起こした後なんだからな……。
「実は……ね? 昨日だけじゃないんだよ」
「……え?」
「一ヶ月くらい前からかな。……ある日、突然……足音が聞こえ始めたんだ。それが……まだ、おさまらなくて……」
 ……一ヶ月も前から……?
 ……誰なんだ……? そんなに前から悟史を追い回して……何になるって言うんだよ……?
「……」
 足音……か……。

「悟史君、そろそろ試合開始ですよ」
「あ、はい。……ごめんね、圭一。急に変な話しちゃって」
「いや。……それは構わないけど」
「じゃ、行ってくるよ」

 ……姿の見えない誰か……か……。
 ……確かに……そんなもんに付け狙われるような事になったら相当気味が悪い。……しかも、一ヶ月もだと……?
 一体……何者なんだ……?

「んっふっふっふ」
「――っ!!!」
 ……その時……聞き覚えのある……嫌な笑いが後ろからしてきた。
「お久しぶりですねぇ……前原さん?」
「……大石……さん……」
 ……何が……お久しぶりだ……。アンタの……せいでっ……!!
 
 ……そういや……この人はさっき悟史の家の前で張り込んでたよな……。
 ……大石さんが悟史を追っているのは、先ほど結論付けたように明白だ。……なら……長時間の接触は無意味……。
 それにしても……こんな所まで追ってくるか……。
 ……ここはグラウンドで、人もたくさん居るが、大石さんなら人気の無いところに呼び出して事情を聞こうなんて朝飯前だ。
 俺が無視するだけじゃ駄目だ。……追い返さなくては……!!
「ど……どうしたんですか? 今勤務中でしょう? こんな所へ来て野球観戦ですか?」
「んっふっふっふ。まぁまぁ、そう嫌そうな顔しないで。昨日の事なら謝りますから」
 ……昨日の事? あぁ、配置する位置を勝手に変えた事か。
 そんな事はもうどうでもいい。……早く……帰ってくれ……!!
「おやおや、そんなに鋭い目で見なくてもいいじゃないですか。……私達は『仲間』なんですから。……んっふっふっふっふ!」
 ……仲間だと……!? よくも……そんな事を言えるもんだぜ……この野郎……!!
「……どーうにもその目つきが直りませんねぇ……。あんたお忘れですかぁ? 前原圭一に。柔術を教えたのは。この……私なんですよぅ? んっふっふっふ!」
「……っ……!!」
 ……く……そりゃ、逆らうだけ無駄だって言いたいのかよ……!?
 ……ちく……しょう……っ……!!
 肩を……掴まれて……凄い力で締め上げられる……!!
 い……痛てぇ……!!!
「あー!!」
「……!?」  
 俺が小さな悲鳴を漏らそうとした、まさにその時。
 突然、誰かの声が……こちらに向かってこだました。
 ……この声、聞き覚えが……。
「大石さんじゃないですか。 圭一君と何かお話してたのかな? かな?」
「おやまぁ竜宮さん。……こんにちは……
 そこには……レナが居た。
 大石さんは、レナを見るや否やパッと手を離した。俺は急に力が抜け、ドサリと地面に尻餅をついてしまう。……そして、それと同時に安堵の息を吐き出した。
 ……にしても……流石ベテラン警察官……。一対一でのやり方と……相手に仲間が来た時のやり方をしっかりと覚えてやがる……。
 実際、大石さんは俺を解放した後、人が変わったように作り笑いをして……適当に言葉を並べた後、グラウンドを去って行った。

「圭一君、大丈夫?」
「あ、ああ……」
 俺は、手を差し出したレナを見た。
 ……レナが来なかったら、……どうなっていただろう。
 ……考えたくもなかった。

 ――カァン!!!!

 ……その時。
 空に良く響く、いい金属音が俺達の耳に届いた。
 それから、歓声が一斉にあがる。……俺はふと、声がした方へと振り向いた。
 ……そこに居たのは……。
「……」
 バットをスイングした体制で、信じられないとばかりに口をポカンと開けてバッターボックスで硬直していた、悟史だった。

「お……おぉお……!」
「悟史君……凄ーい!」

 ボールはぐんぐんと空へ上がっていく。
 まだ、地面には着いてないけれど。……それは、誰が見ても納得の、特大ホームランだった。

 そして、様子を見る限り……打った本人が一番信じられていないようだった。
 見れば、場は満塁。一打逆転の大チャンスで、自分の番が来た。……そういえば、さっき車の中で談笑していた中で悟史はここ一番で打てないって弱点があるって聞いた。
 ……だからこそ、一番……自分で驚いているのだろうな。

 悟史は信じられないような、それでも、自分がやり遂げた事が嬉しくてたまらない……、そういう表情でベースを回っていく。
 そして、悟史がホームベースを踏んだ時、雛見沢ファイターズの得点は興宮タイタンズの得点を一点上回る状態へとなった。
 場も一気にヒートアップしており、勢いはどこまでも止まりそうになかった。
 見れば、悟史もすっかり熱くなっている。……普段見せないような、真剣で……かつ、楽しそうな顔をしていた。
 沙都子の奴も、兄のホームランを見て信じられないという顔をしていたが、すぐに自らのにーにーの元へ駆け寄って凄い凄いと連呼していた。

 ホームベースを踏んだ悟史の元にはチームメイトが駆け寄り、彼の偉業を称えている。……そりゃそうだろうな。聞く話によれば、これが悟史の初満塁ホームランだったはずだからな。
 そもそも、満塁のチャンスで、しかもプレッシャーに弱い悟史がホームランを打つなど、本当に凄い事なのだ。
 何せ、下手なうち方をすればゲッツーで一気にツーアウトのピンチへと追いやられてしまうからな。
 満塁とは、大量得点のチャンスでもあるが、相手にとってもまた、アウトを取り易い状態なのだ。
 だからこそ、ピッチャーとバッターにはとんでもないプレッシャーがかかるのだ。……それに打ち勝った方が……勝つ。
 そして……悟史はそれに打ち勝ったのだ……!!!

 ……すげぇぜ、悟史……!

 見れば、魅音もレナもとっくに駆け出していた。 
 俺も悟史のもとへ行こうと、身を乗り出す。

 ――その時。


 ……ピピピピ。


 ……俺のポケットに入っていたポケベルが、……静かに……鳴った。
 俺は恐る恐るそれを取り出し、メッセージを……読む。

『ソノザキケショユウノマンションヘキテクダサイジュウショハ××、○○○……デス フルデリカ』

 ……それを見た瞬間、俺の脳は疑問符をいくつもつき立てた。
 園崎家所有のマンションへ来てください。それから、住所も書いてある。……そこまでは分かる。
 ……だが……その……後……。


 ……フルデ……リカダッテ……!!!?

 ……どういう……事だ……?
 このポケベルは……誰から……もらったものだっけ……?

 ……あれ……?
 ……確か……。

 ……オオイシサン……ダッタヨナ……?

 俺は……他の人に……ポケベルの番号を教えたか……?
 ……教えて……ないよな……?

 ……じゃあ。
 ……なんで。
 ……古手さんが。
 ……大石さんしか知りえない番号から。
 ……ポケベルに……メッセージを入れられるんだよ!!?


 ……大石さんが……古手さんの名を語っているだけなのか?
 ……でも……。……もしも、本当に古手さんからだったのなら……。

「……」

 ……言葉が出ない。
 大石さんと古手さんが……もし……、仲間になっていたのだったら……。
 俺は……。……俺は……!!!

「……ぐ……」

 ……とにかく……行ってみるしかねぇ……!!!
 ここに記された住所……。……ここに……全てがあるはず……!!!!

 ……くそ、悟史……ごめんな。
 お前の試合……最後まで見てやれなくて……。


 ……俺は、悟史に何度も謝りながら……グラウンドから出ていこうと、大回りをして、高くはられたネット沿いに入り口へと向かう。
 そして少し経った後、俺は入り口にたどり着く――。
 ……だが、そこには。

「……」
 竜宮レナが、俺の行く手を阻むかのように……立っていた。
「……なんだよ、レナ」
 確かレナはさっき雛見沢ファイターズのベンチに行ったはず……。
 ……どうして……こんな所に居るんだよ……。
「圭一君、どこに行くの? 試合はまだ終わってないのに、どこかに行っちゃうのかな?」
「急用が出来たんだよ。いいから通してくれ」
 俺はレナの横を通って、グラウンドから出ていこうとする。
 ……だが、レナは……そんな俺の腕を即座に掴んだ。……そして、離さないように、……ぎゅううと、痛いくらに握ってきた。
「……何なんだよ!!?」
 そんなレナに、俺は声を荒げて言う。
 だが、レナはあくまで冷静な目で……俺をじっと見つめていた。
「何だって言うんだよ!!!?」
 俺は、さらに声を荒げて言い放った。
 だが、レナはさきほどとまったく変わらぬ……その蒼い目で俺の目をじっと見つめて……視線を外さない。
 ……どうしたって言うんだよ……?
 ……昨日会ったばかりだけど……。……こんなレナ……俺は知らないぞ……?
 その、普段と違うレナが……どこか、気味が悪かったのかもしれない。
 俺はさらに敵意をむき出しにした目をレナに向け、既に発しようとしていた言葉が「暴力」に達していた事に気づかずにそれをぶつけようとした……その時――。

「悟史君に似てる」

 レナが、耳元で……そう……言った。

「……え……?」
「けど、今の悟史君じゃない。……少し前の悟史君と、同じ」
 悟史に……似ている……? ……確か……詩音にも同じ事を言われた。
 ……でも、何でだろう、レナの言う「似ている」は、……簡単に流していいものでは……ない気がして……。
 俺は、何も出来ずに……硬直する……。
「お祭りの日……。昨日出会った時から……圭一君、変わったよ。そして、悟史君も変わった。まるで……二人が入れ替わったみたいに」
「……どういう事だよ……?」
「……もし、誰かにずっと見られているように感じたり……誰かがずっとついてくるような事があったら……レナに教えてね」
 レナは俺の言葉を無視して、上から言葉を乗せてくる。
「だ……だからどういう……」
「それはオヤシロさまの祟りの前兆なんだから……」
「……なっ……!?」


 俺が……そうつぶやいたその瞬間、レナの戒めが解ける。
 ……手には……あざが残っていた。
 
 唖然とする俺を尻目に、レナは雛見沢ファイターズのベンチの方へ、無言で歩いていく。
 ……まるで、俺がそこに……最初からいなかったかのように。

 自分は、どうしてこんな所に居たのだろう? だって、さっきまでベンチで悟史君を応援していたのに。
 まぁいいや。早く悟史君の所へ戻って、彼を称えてあげなくちゃ。

 そんな、レナの心の声が……聞こえてくるようだった。
 

 レナは……誰に話をしていたんだよ……?
 ……俺だ。紛れもなく、俺に話しをしていた。
 じゃあ、目の前のレナから感じる……この、妙な違和感は何だ……?

 ……背筋が……ゾクゾクとしてくるのが……よく分かる。……鳥肌も立っていた。
 かいていた汗がベットリと服に付着し、その服が張り付いてくる……。

 ……何だ……? どう……なってるんだ……?
 ……くそ……くそ……。
 ……わけが……分からない……!!!!

 悟史と俺が……入れ替わってるだと……!?
 それって……どういう意味だよ……!!?? 
 「俺」が消えて、いつの間にか新たな「俺」が、今……ここに立っている人格として存在するとでも言うのかよ……!!?
「……」
 ……いや……。さっきのレナから感じた違和感を思い出せ……。

 ……「俺」は……ここに存在しているのか……?

 まさか……俺は、もう……存在していないとでも……?? ……事実……レナは俺を……そこに存在していないかのように、突然……態度を急変させた……!!!!
 い……いや……。そんなはずは無い……!!! 俺が存在しないというのなら……何故「俺」という、「前原圭一」の記憶を持った者が存在している……!?
 少なくとも、俺には意識がある。……今、この瞬間ですら記憶している……!!
 ならば……俺の存在が消えているなんて……ありえない……!!!!
 ……ありえないのに……。

 ……ベンチでは、レナと魅音が悟史に向かって楽しそうに会話をしていた。
 とても楽しそうだった。
 ……その、笑顔が……とても眩しく見える……。

 ……そして、同時に……。……俺は感覚的に、もう……あそこには行けないのだろうな、と。……そう、思った……。
 あそこに居る悟史は「入れ替わった」悟史なんだ。……あの悟史も、きっと昨日の悟史じゃない。
 ……そうか、きっと……沙都子も入れ替わってるんだ。……だから……叔母が居ない事に何の違和感も感じていない。
 初めから二人でそこに住んでいたものとして……そういう記憶をあいつらは持っているんだ。
 ……俺も……悟史も……沙都子も……。

 ……もう、昨日の俺達じゃ……ないんだ……。



 俺は、ポケットに入っているポケベルへともう一度目をやった。 
 ……このメッセージは……果たして本物なのだろうか……?
 俺が俺でないのならば、このメッセージは俺へ宛てたものじゃない。別の俺へ宛てたもの……。
 それが、何故俺のもとへ来たのか。

 ……まさか……俺が不必要で……処分するための罠でも仕掛けているというのか……!?
 ……それじゃあ……悟史と……沙都子は……!!!?

 ……あそこで笑っている悟史と沙都子が……別の悟史達だというのならば……。
 前の悟史達は……どうなったんだ……!!?

 ……前原圭一、北条悟史、北条沙都子の、「別の」個体……。
 それが、新たな俺達として存在している。
 ならば、古い……前の俺達はどうなる……? 

 ……処分……される……のか……!!?
 ……何者かの手によって……!!!!!

 ……く……くそったれ……。
 処分されてたまるか……!! 殺されてたまるかよ……!!!
 ……逃げなきゃ……。早く……逃げないと……!!!!

「――っ!!!」

 ――その……時だった。

 ……何……だ……?
 今……背後から……っ……視線……が……!!!??

「だ……誰だ……?」
「……」
「誰だよ……!!?」
「……」
「誰なんだよ!!!?」
「……」

 ……なんだ……なんだ……!!? 一体……なんだってんだよ……!!?
 何故突然視線が現れる……!!? 何故突然……よりにもよって……俺のすぐ後ろに……!?!!?

 だ……誰だよ……!? 誰なんだよ……!!?!?
「……っ、」
 そ……そうだ……!!
 ……ふ……振り向けば……いいんだ。
 そうだ、振り向け。そうすれば、そこに何があるのかが……分かるはずだ……。
 お、落ち着け……。落ち着いて、よく考えるんだ。

 そこに何かが居るのなら……振り向けば、そこには誰かが居るんだよ。
 そうだよ! 俺をじーっと……見つめる……この視線は、必ず……発している主が居るはずなんだ。
 ……そう、例外なんて……あってはならないんだ。……俺の背後には、誰かが必ず居る。
 ……居ないなんて事は……絶対に……無いんだ。……そう、居ないなんて……事は……。


 ……もし……誰も……居なかったら……?

 誰も居なかったら……この、視線は……?

 誰も居ないのに、何で、視線が、背後から、……するんだよ……??


「……う……うわあぁああぁあぁぁあぁああ!!!!!!!!」




 ……俺は、走った。
 走って、走って、走って、走って……!!!!
 足が……ぶっ壊れちまうんじゃないかってくらいに……そこらを適当に……走り回った……!!!
 もう、どれくらい俺は走ったんだろう……? わからない。……けど、それぐらいに俺は走り回った……!!!!!
 その視線を振り払うために。
 何より……さっきからずっとしている……この、どうしようもない不安を……拭い去るために……!!!!

 ぺた

 でも、

 ぺた

 ついてくる……!!

 ぺた

 ぺたぺた足音を立てながら、

 ぺた

 ついて……くる……!!!!!

 ぺた

 走っても走っても

 ぺた

 一向に足音は止まない……!!

 ぺた

 まだついてくる。

 ぺた

 まだついてくる……!!!!

 ぺた

 逃げなきゃ……!

 ぺた

 逃げなきゃ……!!!!!

 ぺた

 逃げなきゃ!!!!!!!!




 ――キキッ!!!!


「――え」


 ……変な……音がした。
 何か、車が……急ブレーキをかけるような、そんな……変な音だった。
 その後、聞きなれない、何かが……ぶつかったような音が俺の耳に届いた。
 その音を聞いた後、……ははは、どうして……だろうな……?

 身体に……痛みが走った。

 それから、フワリと浮く感覚。ありえない。
 ここは地球だぜ? 重力がはたらいてるんだろ?
 なら、ただ走っただけで、身体が……浮くはずがない。
 ……ありえない。……あり……えない……。


 ……そうさ……。


 ……ありえないんだよ……。




 




















 






 











「――!!!!!」
 俺は、目を覚ますなりガバッと起き上がった。
 ……すると、頭を天井で打った。……天井が低い……。……ここ……車の中……?
 俺の顔に、朱い日差しが差し込む。……窓の外を見ると、既に日が暮れ始めていた。
「……! 監督、圭一さん目を覚ましましたわよ」 
 それから、俺の背後から……沙都子の、声がした。
 ……俺……沙都子の膝で寝てたのか……?
「目が覚めましたか、前原さん」
「か……監督……。……ここ……監督の車の中か……!?」
「むぅ、そうだよ」
「ですわ!」

 二人がそういい終わらないうちに、車がガタンと揺れ、俺の身体に再び痛みが走った。
「……ッつ!!」
 ……そ……そうか……俺、……車に轢かれちまって……。
「す……すみませんでした……。……いえ、謝って済む問題だとは思ってませんが……」
「監督、何を言っていますの! 信号を無視して勝手に飛び出してきた圭一さんが悪いですの!」
 ……監督の言葉に、妙な違和感。
 ……え……っと……?
「ど……どういう事だよ……?」
「圭一、覚えてないの? ……試合が終わって、監督の車に乗せてもらって僕達が移動ながら圭一を探してたら……突然、君が飛び出してきたんだよ」
「……え……?」
「あなたを探して、スピードをさほど出していなかった事が幸いでした。周りにひとけがなかったのも……前原さんを車に乗せる時余計な誤解がなくてよかったですよ」
「……あ……」
 ……!
 ……そう……だ。
 思い出した。俺は……ずっと走ってて……信号なんて見えなかったんだ。……それで……。

「……!!!!」 
 
 ……足音……!! ……そうだ、足音は……!!?

「……」

 ……今は……もう、しないか……。
 ……俺は、安堵の息を吐き出してから、痛む部分を手でおさえた。
 そして、前の座席に座っていた悟史へと視線を向ける。
「……なぁ、悟史」
「何?」
 俺に声をかけられた悟史は、首をこちらに向けながら返事をした。
 俺は……続ける。
「お前……言ってたよな。足音が……ずっとついてくるって」
「……!!!!」
 悟史は、俺の言葉に目を見開いた。
「……よく……分かったよ……。俺も……さっきそれに追い回されて……パニックになってたんだ。それで……信号機が見えなくてな……」
「……圭一も……かい……」
 それから、哀れむような……それでいて、俺を慈しむような、そんな表情で悟史は俺を見ていた。
 ……そして、悟史以外にも……俺の話に目を見開いた人が居た。
「……前原さん、その話は……本当ですか……!!?」
 ……監督だった。バックミラーに映った顔を見て……彼がいかに真剣に聞いているかがわかったので、俺は茶化そうと思っていたがそれを止め、一言、
「……はい」
 と答えた。

「……そう……ですか……」

 それから、しばらく沈黙が流れる。
 俺も悟史も俯き、監督は運転に集中している。……沙都子だけが、状況を理解できていないようで、不思議そうな顔で俺を見ていた。

 ……これでは流石に間が持たないので、俺は思い切ってさっきの事を口にしてみた。
「あの……監督。俺、さっきレナに……『俺と悟史は入れ替わってる』って言われたんです。……これって……どういう意味なんでしょう……?」
「……僕と……圭一が……?」
 俺が、悟史が。……別の俺達と入れ替わっている。
 ……レナは確かに……そう言った。
 俺は……未だに俺達の身に何が起こっているのかを知らない。……だから、悟史も含めて、意見を聞いてみようと思って、口にした事だった。
 だが、返ってきた返事は……俺の予想を、大きく反していたものだった……。

「……前原さんは、最近……挙動不審になった事はありませんか?」
「……え……? ……そう……言われてみれば……そんな気もしますけど……」
 ……挙動不審……。確かに……祭りで大石さんに裏切られて……それから、再びその張本人に会った時には……かなりそんな状態だったように思う。
 大石さんが敵にまわってしまった事への……多少なりとも、湧き上がってきた恐怖……。
 本人を目の前にして、それが一気に表に出てきたのかもしれない。
「……あぁ、そういう事ですの……。……圭一さん、ひょっとしてレナさんが『圭一さんとにーにーが、別の誰かと入れ替わっている』と言ったと思ってるんじゃありませんこと?」
「……え……。……そうじゃないのかよ……?」
「……なるほど……ね。……圭一、それは違うよ。きっと、レナが言いたかったのは『僕と圭一自身(・・)が入れ替わっている』って事だったんだと思うよ」
「……つまり……どういう事なんだ……?」
「要するに、お祭りの前までレナが見ていた『僕』と、お祭りで出会った『圭一』で、僕の挙動不審が今日の圭一に移って、あのお祭りの時の圭一の明るさが今の僕に移ったって、レナはそう言いたかったんじゃないのかな?」
「それで、レナさんは『入れ替わった』って表現を使ったんだと思いますわよ?」
 ……あ……。
 ……そう……か……。……そういう……事だったのか……。
 ……う……ぉおぉ、何て……恥ずかしい……。
 俺は……一人で勝手に暴走して……とんでもない事を……っ、妄想……してたのかよ……。

 俺は恥ずかしさで頭が一杯になり、顔を真っ赤にしながら俯いた。

 しばらくは何も言えなかったが、俺は……この事に気づかせてくれた事に礼を言うのをすっかり忘れていた事を思い出して口を開いた。
「……あ……ありがとうな……。なんか……色々誤解が解けて……すっきりしたよ……」
「……圭一さんには知性というものがありませんものねー!!」
「何だと沙都子おぉお!!!」
 恥ずかしくてたまらなかった気分は沙都子の一言で一気に覚めた。
 ほほう、車の中で……んな事言うとはいい度胸だ!!
 それは……俺様のでこピンから逃げられん事を承知の上での発言だろうなぁぁああ!!!!

「け、圭一。あんまり暴れると監督に悪いよ……。僕達乗せてもらってる身なんだし……」
 そんな俺を、悟史が言葉巧みに制した。
「……う……まぁ……そうだな……。……あーっくそ!!」
 悟史め、妹を護るすべを心得ているな……。
 沙都子のためではなく監督のためだと言い張り、さりげなく沙都子を護り、かつ監督への好印象へのアピールへとつながる発言……。
 ……いや、悟史の事だからそんな事は叔母から沙都子を守るために無意識に身についたものだろうし、監督ならそんな事見抜いているかもしれないけどさ……。
 まぁ、悟史の発言だけで俺の不快な気分が晴れるはずもなく、とりあえず俺は沙都子の頭を乱暴に撫でる事でそれを沈めていくのであった。

 そうして俺が気を紛らわしていると、悟史が……口を開いた。
「……ねぇ、圭一。圭一は言ったよね。……俺を信じろって……」
「……? あ、ああ」
「だったら……僕達の事も信じてよ。僕も、沙都子も、監督も……。……皆、皆仲間なんだからさ……!」
 ……信じる……?
 俺が……皆……を……?

 俺は……沙都子を見る。俺の手の下で、沙都子は……真っ赤になりながらだったが……きちんと、うなずいてくれた。
 次に……監督を見た。……バックミラー越しではあるが、こちらも……うなずいてくれた。
 ……そういえば……俺は他人に信じろ、信じろと言っておきながら……古手さん以外の人間を信じた事なんて……今までなかったような気がする……。

 第一の年も……第二の年も……第三の年も……。
 俺は……彼女の助言しか聞かなかったし、聞こうとも……思わなかった……。……いや、無意識にそうしていたんだ……。
 俺は、自分から……壁を作っていたのか……。

 ……誰かを……信じる。
 そういえば、古手さんは言っていた。……さっき俺が体験した事は……綿流しの前日……この年にきた直前に、彼女から悟史達の事について教えてもらう時に一緒に教わった「雛見沢症候群」の症状によく似ていた……。
 過剰な被害妄想……。そして……それから誘発される疑心暗鬼……。
 あの時の俺は……まさにそれだったと言えるだろう。



 ……俺は、俯いていた顔を上げる。
 ……その時だった。
 電信柱に……どこか見覚えのある住所が書いてある。……本当に一瞬だったが、反射的に眼を変化させ……俺は、しっかりとそれを見た。

 ……ここ……ポケベルで指定された場所のすぐ近くじゃないか……!!!!

「かっ……監督……!! ここで……ここで下ろしてくれ……!!」
「え……!? し……しかし、前原さんは一度診療所で診察を受けた方がいいです……!!」
「いいんだ……!! ……ここに……ここに、俺が求めているものが……あるかもしれないんだ……!!!」

 ……俺が求めているものは、唯一つ。
 俺の記憶。……記憶に秘められた……真実のみ……!!!
 全てを取り戻すために。……俺は……ここからさらなる茨の道を突き進まなくちゃならない……!!!

 ……経験して、よく分かった。
 悟史がどんな苦しみを味わっていたのか……。
 ……あの時……俺は何も考えずに、ただひたすら逃げる事ばかりを考えていた。
 ……その結果、俺は……信号を無視するという大失態を犯した……。
 こんな言い方は変だが。……轢いてくれたのが、監督で本当によかったと思う。
 ……他の車だったら、スピードは監督達が乗っていた車の比じゃないだろうし、ひき逃げの可能性もあり得た。
 それに、おかげで誤解は全て解け、俺はこうして正気に戻る事が出来た……。

 ……偶然なんだろうが……本当に……感謝だな……。


 ……それに……俺は、再認識した。 
 俺は一人じゃない事。
 ……俺には……仲間が、ちゃんと……俺を支えてくれているのだという事実を……!!!

「……圭一。僕も行くよ」
 監督が車を止め、そこから降りようとドアに手をかけた時、前の座席から声が俺に届いた。
「圭一が何をしようとしているのかは分からない。……けど。……今度は、僕が圭一を助けてあげなくちゃならない」
「……悟史」
「仲間は……助け合うもの。……そうだよね?」
「……へっ……。……ああ、その通りだ……!! ……助かるぜ……悟史……!!」
「じゃあ、監督。……そういう事だから……」
「……分かりました」
「……にーにー……」
「沙都子は、ちゃんと家でお留守番しててね。……必ず(・・)、帰るから」
「……分かりましたわ。……私、待ってますわ。……にーにーが、帰ってくるまで……ちゃんと、ちゃんと……待ってますから……!!」
「……うん。よろしくね、沙都子」

「……では……。沙都子ちゃんは、私が責任を持ってお家まで連れて帰ります」
「助かります。……それじゃ……」

 悟史は車のドアを閉め、監督達に手を振って……車は発進した。
 そして、俺は悟史を見て少し驚く。
 ……手には、金属バットが握られていたからだ。
「……念のためにね」
「……あぁ、ナイス判断だぜ、悟史」

 ……それから俺は達は、無言でポケベルで指定されていた住所まで歩いていった。



「……ここか……」
 そこから少し歩くと、画面に映る住所と同じ場所へとたどり着いた。
 そこは、立派な高層マンションだった。……でも、人は……あまり住んでいないような感じだ。
 ……こんな所に、一体何の用があるというのだろう……?
 俺がそう疑問に思いながらさらに歩みを進めていくと、……そこには……。

「……あ、梨花ちゃんだ……」
 悟史が、前方に見えた人影を見て声を漏らした。
 俺も少し驚いている。そこに……古手さんが居た事に……。
「……それに……」
 俺は、古手さんよりも……その、横に居る人物へと自然と目が行った。
「大石さんも居るな」

 ……予想通りというか……何と言うか……。
 ……まったく、どう声をかけりゃいいんだよ。

 俺は頭をバリバリと掻きながら、悟史と共に二人に近づいていく。
 二人も、俺達に気づいたようで……こちらを見て、古手さんは手を振った。

「……やぁやぁ、前原さんに……北条さん。……まさか……お二人で来るとは思いませんでしたよ……んっふっふ……!」
「お久しぶりですね大石さん。こんな所に呼び出して……一体何の用ですか?」
「いえいえ、呼び出したのは私じゃありません。そこに居る、古手さんですよ」
「……みぃ」
 ……やはり……大石さんのポケベルを使って……古手さんがメッセージを送ったものだったのか……。
 確かに、連絡手段としてはこれ以上は無いな。……余計な詮索なんてハナから不必要だった、ってわけだ。
 ……ほんと、あの時の俺はどうかしていたぜ……。

「……で? 古手さんは俺に一体何の用なんだ?」
「圭一をここに呼んだのは……誤解を解くためと、詩音についてなのです」
「……詩音……? 詩音がどうかしたの……!?」
 詩音、という名前を聞いて、悟史が少し取り乱した。
 俺は黙って手を出して悟史を制し、古手さんに先を促す。
「……悟史も居るなら話は早いのです。……悟史、昨日の祭りが終わった後から……誰かの視線を感じたり、後をつけられているように感じた事はありませんか?」
「え……? ……う、うん。それは……あったよ。でも、昨日の祭りっていうよりは……それよりずっと前からだけど……」
「……そう……」
 ここで古手さんは、そう言って寂しそうな顔をした。
 ……あの足音……やっぱりいいものじゃないらしい。
「前からある足音というのは分からないけど、祭りの後からしている監視の目や足音とかは、現実に聞こえるものなのです。……実は、ボクが大石に頼んで悟史に警備をつけてもらうようにお願いしたのです」
「僕に……?」
「……ええ。あなたは、後2〜3日後、あなたの意志とは関係なく、失踪させられるの。『鬼隠し』という名目上でね……」
「……え……?」
「だから、大石に頼んだの。あなたに何があってもいいように……。……だから、悟史。……あなたは後をつける視線や足音を恐れる必要はないの」
「……う……うん……」

 悟史は、古手さんが何を言っているのかよく分からず、適当に相槌を打っていた。
  
 ……だが、俺は違った。
 ……古手さんの会話を聞いているうちに……俺の思考回路は……どんどん、急速にさえていく。
 まるで、今まで軋み、ギギギといびつな音を立てていたモーターに……油を差したかのように……滑らかに、すばやく、俺の脳はフル回転を始める……。 

「圭一。……お祭りの日……あなたが作戦を考えてくれていた時、私だって何もしていなかったわけじゃないのよ?」
「……あ……ああ。……どうやら……そうみたいだな」
 俺はチラリと大石さんを見る。……あちらも俺の視線に気づいたようで、いつものようにんっふっふ、と笑った。
「圭一の作戦を聞いてから、……あなたには悪いけど、大石に場所の変更をお願いした。……こうすれば、あなたも悟史も、互いに行きつく場所が一致する可能性が高いとふんだから……」
「……俺も悟史も……見事に作戦にはまっちまったって事か……」
「そして、大石には悟史が今回の事件の『容疑者』として警官を配備してもらうようにお願いしたの。……それが、一番不自然ではなく、かつ悟史の傍に警察を置く事が出来る方法だったから……」

「あ、あの……」
 古手さんがそこまで言ったところで、悟史が困った顔をして割って入ってきた。
 何やらそわそわとしながら、大石さんをチラチラと見ている。
 ……その、悟史の行動を見て……俺は、ようやく事の重大さに気づく……。
 ……あ……、し……しまった……。警察の……大石さんの目の前で……俺達は何て事を……ペラペラと……!!!!

「んっふっふっふ。……そんなに私が気になりますかぁ? 何なら席を外しますよぅ?」
「……い……いえ……。ここに居てください」
 俺はすぐにそう言った。
 ……今……この人を俺達の視界から消さない方がいい。……何をされるかたまったもんじゃないからな……。

「……まぁまぁ、そんなに怖い目で見ないでください! 実はね、私は今日非番なんですよ」
「……え……?」
「警察官の大石蔵人ではなく、今は一市民の大石蔵人です。……安心してください、署の方に今日聞いた事を暴露するような真似は絶対にしませんよ。……何せ今は警察手帳も持ってない身なんですからねぇ……んっふっふっふ!」
「大石さん……」
「先ほどグラウンドで言ったはずですよ? 私達は、『仲間』だと。……同盟組んだの、忘れちゃいました?」

 ……そういえば……さっき言われたのを……今更になって思い出す……。
 ……あの時は……嫌味を言われているようにしか思えなかったからな……。

「……さっきはどうもすみませんでした。……前原さん、どうも気が動転していらしたようですので、目覚ましにちょーっとした刺激を与えてあげようと思って肩に手を置いたんですけどねぇ」
「……はは……。あの時は俺もどうかしてましたから……。……今更になって……さっきのあなたの行動の合理性に気づく自分が情けないったらありゃしないですよ……」
 ……大石さんが最後に言った『柔術』についての……脅し文句――と言ってもあの時そう感じただけだが――は、あれも……気が動転していたと大石さんが感じていたのなら、こんな野球を傍でやってるような所で暴れてくれるなよ……と、そう伝えたかったものだと分かる。
 俺がもし錯乱を起こし、眼の力を解放して暴れまわっていたら……おそらく、だれかれかまわず襲い掛かっていただろう。
 そうなれば野球は無論中止……けが人、下手をしたら……俺は人を殺していたかもしれない。
 ……そう思うと、大石さんの事以外を視界に捉えられなかったあの状態は……俺の気を自分に向けさせる、という意味ではもってこいだったように思えた。
 それに、大石さんは俺に柔術教えてくれた人だ。……あの時の言葉どおり、通常の俺じゃ歯が立たないのは明白だろう。
 だからこそ、もし暴れまわっても押さえつけられると大石さんは考え、行動にうつしたのだろうな……。

 ……だが……この考えには一つだけ欠点がある。
 ……「眼」だ。俺が眼を暴れまわった時に使ってしまえば、大石さんであろうと歯が立つはずがない。
 ……身体能力、動体視力、視力自体も格段に上昇する。並みの人間ではありえないほどに……。
 大石さんは俺の眼の事を知っていたはずだから……もし、そうなっていたら……大怪我、下手したら命を落としてしまいかねなかったと安易に予想できたはずだ。
 ……それでも、大石さんは……やってくれたんだ。俺を……犯罪者に……しないために……。

「……北条悟史さんですね? ……ご安心を。……今は私は興宮に住んでいる中年に過ぎませんからねぇ。何を話しても結構です。その事を口外する事もしませんからね」
「……そう……ですか……」
「ご安心を。……悔しいですが……あなたが犯人だという証拠がまだ見つかってません。礼状もなしに逮捕なんてのはありえませんからねぇ……んっふっふっふ!」

 大石さんは、ただただ……笑っていた。
 その笑い方は、悟史が犯人だと確信し、必ず証拠は出ると確信しているものだ。
 古手さんが必要以上の事をしゃべったとは思えないから……何か、本当に証拠が出てしまう前に……何とか悟史の逃げ道を作っておかないとな……。

「……さて、圭一。誤解は解けたと思いますが、何か質問等はありますか?」
「……いや。無いよ」
「分かりました。……では……あなたをここに呼んだ……本当の理由をこれから話します」
 古手さんは俺をじっと見つめ、一時の間を置いて……再び口をあける。

「……詩音」

 ……だが。古手さんが声を出すよりも早く、悟史が……ボソリとそう言った。
「さっき……詩音がどうかしたって言ってたよね? ……あれは……どういう事なの?」

「……詩音は……これから……本当に、近い将来……。……おそらく、今日……」
「……」
「爪を、剥がされます」

「――え」

 ……爪……?
 爪を……剥がされる……?

 ……爪って……これだよな? ……この……手とか、足についてる……。

「……園崎家の『けじめ』とかいうやつですねぇ……。私もちょいとそういう風習があるってのを耳にした事がありましたが……。……想像もしたくないですねぇ……」
「大きな大きな拷問具に、手を縛られ、詩音は……泣き叫んで、許しをこうけど……拷問具も、園崎の執行役も、無慈悲に……詩音の爪を剥いでいくのです」

 爪を……剥がされる?
 この、爪を? ……おいおい、そりゃ……何だよ……?
 だって、くっついてるんだぜ? ふざけて遊んでて……痛々しくも、剥がれてしまったならいざ知れず……。

 ……大きな……大きな拷問具で……無理矢理……?

 ……ギチギチと……いびつな音を立てながら……。
 ギギギ……と、嫌な音と共に……自分の爪が……激痛と共に……剥がされる……。

「は、はは……。……じょ……冗談だろ……?」

「冗談では、決してないのです」

 風がザァッと吹き、俺達の髪を揺らした。
 日は、さらに沈んでいき……もう、空を照らすのをやめようとしている。

 それから、漆黒の闇が訪れるのに……そう時間はかからなかった。


 ……俺は、自分の指を見る。
 手の先から生えている爪は、綺麗なピンク色をしていた。

 ……それから、背筋がゾクゾクしてきたため、俺は爪を見るのをやめる。

 爪から離れた視線は、自然と皆の顔へと行った。
 大石さんは、詩音を哀れむような表情。……おそらく、情報をキャッチして、その内容を知っているからこそのものなのだと俺は思った。
 古手さんは……何とも言えない、それでも……悲しげな顔だった。その様子からも……詩音が受ける拷問が……どれだけ凄惨なものかがうかがえる……。
 最後に俺は……悟史を見た。


 そこで、俺が見た悟史は。


 ……俺の目に狂いが無い限り――



 ……怒っていた。




 怒りに身を震わせ、それが……どうしても許せないと、彼の全身が語っている。
 ……でも……、どうする事も出来ない自分が……情けなくて……。
 それにさえ怒りを感じ……ぶつけようの無いこの怒りをどうすればいいのか、分かりかねているようだった。

 ……その姿を見て。

 何でだろうな。


 ……俺の勇気は……みるみるうちに湧き出てくやがった……!


 ……そうか……。お前は、許せないんだな。
 詩音を襲う、あらゆる理不尽が。自分だけを襲うならまだしも、詩音にまで飛び火が舞うのが……納得できないんだな?
 そうか。……そう……なんだな……!!!!

 俺とした事が……。……すっかり……あきらめモードに入っちまってたぜ……。

「……古手さん。詩音は……このマンションに居たのか?」
「……いえ。居ませんでした。……その代わり……」

「……どうも」

 古手さんがそう言うと、……マンションのエントランスホールから、がたいのいい男が一人出てきた。
 ……黒スーツにサングラス。……いかにもって感じだな。
 ……明らかに、園崎関係の人だった。

 その人は俺と悟史を一瞥した後会釈をしてから、
「初めまして。私は、詩音さんのお付をさせてもらってます、葛西辰由と申します」
 ……と、静かに言った。
 その後、ゆっくりと悟史の元に歩み寄る。
 ……何をする気なのかと俺が拳を握って様子を見ていると、葛西というその人は、表情をよりいっそう険しくさせた。
「あなたが……『悟史君』ですね?」
 そして、相変わらずの低い声で悟史に尋ねた。
 初めは悟史もどう答えればいいのか戸惑っているようだったが、彼もまた、「はい」と低く返した。

「詩音さんから……これを預かってます。彼女が……本家に連れて行かれる直前に、あなたに渡してくれと……そう、頼まれて預かっていたものです」
 葛西という男はスーツの胸ポケットから、一通の小さな手紙を取り出した。
 悟史はそれを受け取り、静かに開いて……読み始める。

 ……詩音から……悟史への手紙……。
 一体何が書いてあるのか、気にならないといえば嘘になる。
 だが、それを見る資格は……俺にはないのだ。
 あの手紙は、詩音が悟史へ宛てたものなのだから……。

 悟史は手紙を読み終えると、静かに元通りに折りたたみ、ポケットにしまいこんだ。
「……葛西さん……でしたよね。僕を園崎本家へ連れて行ってください」
 そして、とんでもない事を言い出した。
「……無理です」
 葛西という男も、無論という様子ですぐに返事を返した。
 ……そりゃそうだ。園崎に属している人間が、北条家である悟史を連れて本家まで案内するなど、出来るはずがないのだ。
 だが……悟史もそんな事はわかっているはずだった。……なのに。何故、聞くのか。

 それは……悟史の目を見て、すぐに愚問だと気づく。

「無理じゃないはずです。あなたは車を持っていますし、僕を乗せられないほどせまい車じゃないはずだ」
 それを聞いた葛西という男は、呆れたような顔をした。
 サングラスで具体的な表情は分からないが、大体何を思っているのかは察しがつく。
 ……そして、やはり呆れた感じを声に混ぜながら、口を開く。
「……いいでしょう。……仮に、私はあなたを車に乗せ、園崎本家まで行ったとしましょう。あなたはそれで何をするつもりですか?」
「詩音を助けます」
「……無理ですね」
「無理じゃありません」
「無理です」
「助け出します」
「……」

 葛西という男も、冷徹に無理だと繰り返すが、悟史は一歩も引けをとっていなかった。
 それは……普段の悟史からは想像も出来ないくらいに……たくましい姿。
 これが本当に、あの悟史か……と、失礼ながら思わず疑ってしまうほどだった。……事実、古手さんも大石さんも、二人のやり取りを見て唖然としている。

 ……お互いがお互いに睨みを利かせあい、視線のみで相手を打ち抜こうと……チャンスを狙っているような感じだ。
 ……本来なら……悟史に勝ち目などない。数秒で「むぅ」と言って目をそらすに違いなかった。
 だが。……目の前の悟史は、逸らさない。ポケットに手を入れ、そこにある詩音の手紙をぎゅっと握って、一向に葛西辰由から目を離さないのだ。
 それからも、互いににらみ合ったまま。
 ……まるで、蛇と蛇が互いににらみ合っているかのようだった。
 
 悟史の瞳には……目の前の男に引けを取らないほどの迫力があったのだ。



 ……だが、悟史はこういうところでも不器用だった。
 にらみを利かす以外に何をすればいいのか思いつかず、にらみ合ったまま硬直してしまったのだ。
 向こうはこのまま何もしないのならば、自分は余計な手間が省けるから都合がいい。
 だが、こちらはそうもいかない。園崎本家の場所は俺も知らないし、悟史を負ぶっていけるほどの体力は全身が痛む今の俺にはなかった。
 大石さんも、職業柄警察手帳も持っていない身で園崎家へ向かうのはごめんだろう。
 ……つまり。園崎家に乗り込むには……この男の協力が必要なのだ。
 しかし、今の状態が続いては、それは一向に叶わない。

 俺は握りこぶしを作り、それに力を込めた。

 ……悟史。
 俺……言ったよな。


 お前と……共に苦難を乗り越えるための手伝いをしてやるってよ……!!!!



「……葛西さん……だったな。悟史の言う通り……俺達を園崎本家までつれていってくれないか?」
 俺がとうとう口を開くと、悟史がチラリとこちらを見た。……葛西という男も同様に。
 俺は、悟史に「まかせとけ」とアイコンタクトを送り、二人の戒めを解除する。
「……あなたは……前原さんでしたね。……四年前のご活躍は耳に入れています」
「話をそらすんじゃねぇ。連れていくのか行かないのか。……どっちだ」
「NOです」
「……」

 ……わずかながらでも……動きがあるとは思ったが。
 ……しょうがねぇ。言い負かすしかねぇようだな……!!

「詩音を……見殺しにする気か」
「……!」
 
 ここで、初めて男に動揺が見て取れた。
 ……だが、さすが園崎の人間、すぐに立て直して、平静を装う。
 ……どうやら……この人も仮面を被ってるみたいだな。
 さっきの動揺が明白な証拠だ。園崎の人間が……どうでもいいやつを見殺しにするのかと言われて動揺なんざするはずがねぇ……!
 ……亀裂は入れた。……後は……決壊を狙うのみ……!!!!

「……葛西さん。俺と悟史は、詩音を必ず救い出してみせると約束する。100%……確実だ。なぁ、悟史?」
「うん」
「……」

 葛西さんは、黙って俺達を凝視した。
 サングラスの奥に光っている鋭い瞳が……ギロリと見てくるのだ。
 ……俺は、不覚にも一瞬恐怖を感じた。

 ……だが。……悟史は、それにすらまったく臆していない……!

 ……信頼できる仲間。
 悟史にとって、最も……信頼できる人物。

 その人を、助け出すために自分に出来る事がある。
 それを……実行せずに、何が大切な人なのか……!!!

 大切なら命をかける。己の命が失われようとも、その人だけは救い出す。
 ……今の悟史からは、その気迫を間違いなく感じ取る事が出来た。
 
「ですが」

 葛西さんがだんまりから口を開いた。

「実際問題、どうする気です? 失礼ですが、私にはあなた達二人では何も出来るはずがないと思いますが」
「そんな事はないよ」
 冷ややかな葛西さんの言葉を、悟史がさえぎった。
「そんな事は……断じてないよ。僕は詩音を助け出す。必ず助け出す。……それ以上でも以下でもない。自分にはそれが出来ると信じているからそう言うんだ」
「……」
「園崎家の人をナメているわけじゃないよ。……でも、どうしてだろうね? 僕は……もう園崎なんか怖くないんだよ。今まであれだけ怯えて……憎んでいたんだけど。恨みもないし、怯えもないんだ」
 悟史は、堂々と……そう言い切った。
 北条の人間である悟史が、それを園崎の人間の前で言う。
 それがどれほど勇気が居る事なのかは分からない。……だが、今の悟史にとっては……そんなものは「勇気を出す」にも値せぬ、ささいな問題になっているのだ……!!

「詩音は……僕の助けを待ってる。……あの時の僕と同じだ。助けが欲しくて欲しくて仕方がないのに、環境がそれを許さない。だから、差し出された救いの手を受け取れない。……今の詩音は、あの時の僕と何ら変わりないんだ」
「……それがどうか」
「だからこそ分かる。……詩音が……今どんな気持ちでいるのか。……詩音が、どれほど絶望の中に居るか。……詩音が……どれほど僕の事を想っていてくれるのかが!!!」

 ……最後には、悟史は声を完全に荒げていた。
 感情が爆発していた。……無理もない。訴えるべき時にこそ……クールな思考を最高に熱く燃え上がらせなければならない時なんだからな……!!

「僕は詩音と接する事で、自分自身の狂気を抑えてきた。……いや、彼女がそれを抑えてくれたんだ。……僕は、詩音に何度助けられたか分からない。……だから……今度は……僕が」
「……」
「僕が、彼女を助けてあげなくちゃならない。だからこそ。……僕は行かなくちゃならない……!!!」
「……本気で言っているのですか」
「当然です」
「……」

「……葛西さん。あんたが何で戸惑ってるのかは分からないけどさ。俺達は自分の為に園崎家へ乗り込むんじゃない。……詩音の為に。……彼女を助け出すために乗り込むんだ……!!!! ……それだけは……間違えないでほしい……!!」
「……」

 それから……再び、葛西さんは俺達を見回した。
 俺と悟史の目を見ているのが……感覚的にも、直接的にもよく分かる。
 だから、俺も悟史も目を逸らさない。

 鷹に目をつけられたら、逃げるだけが選択肢じゃない。
 ……立ち向かうという選択肢だってある事を……忘れてはいけないんだ……!!!

「……分かりました」

 そして……遂に俺達が望んでいた言葉が彼の口から発せられたのだった。


「……前原圭一さん」
 それから、昇り始めた月明かりに後ろから照らされて……葛西さんの表情が暗くなり、見えなくなる。
「……それから、北条(・・)悟史さん」
 ……それでも、口が開き……彼の声は、はっきりと俺達の耳に届いた。 

「……詩音さんを……よろしくお願いします……!!」


「「……任せてください……!!」」


 それから葛西さんは走って駐車場へと向かい、次の瞬間、ものすごい音と共に、ものすごいスピードで一台の車が来て、さらにものすごい急ブレーキを俺達の前でかけた。

「乗ってください!!!」
 葛西さんは窓からこちらに向かって叫ぶ。
 俺達は互いに顔を見合ってうなずき、悟史はすぐに車の後部座席に乗った。
 俺は……車に乗る前に、古手さんの方を向いた。

「じゃあ、行ってくるよ」
「……無茶だけはしないでね」
「無茶しなきゃ幸せなんて勝ち取れないだろ。……まぁ、最善を尽くしてくるよ。……古手さんは、沙都子の所へ行ってくれ。あいつ……一人じゃ寂しいだろうからな」
「……。……了解なのです☆」

 にこりと古手さんが笑い、俺はそれを見て安心し、すぐに車に乗り込んだ。
 
「飛ばします!! しっかり捕まっていてください!!!!」

 それから、葛西さんはこれでもかと言うほどアクセルを踏み込み、車は急発進していく。
 スピードはぐんぐん上がっていき、町の風景をのんびり見るなんて考えがあろうものなら、お前は何を考えているんだといわんばかりのスピードだ。
 俺達は急カーブや曲がり角でぶつかるんじゃないかとヒヤヒヤしながら、シートベルトをしめ、後部座席から前の座席にしっかりと捕まってその圧倒的な運転力に何とか耐えていた。

「……詩音……。今行くからね……!!!」

 悟史がそうつぶやいたのが、俺にははっきりと聞こえた。





 *     *     *


 ……それは、あまりにも唐突だった。
 綿流しの翌日、雛見沢ファイターズが試合を行うって知ったから。
 ……応援するために、お祭りが終わった後から……徹夜して、皆が飲むスポーツドリンクの準備とか、タオルの準備とか……色々したのに。

 ……翌日、見事に晴れたから。
 ……意気揚々と……グラウンドへ行こうと、マンションを出たのに。


 ……待っていたのは、園崎家の……黒いリムジンだった。




 それを見た瞬間、私の目の前は……真っ白になった……。








「……これから……私はどこに行くんです?」
 ……車に揺られて、雛見沢へ向かう道の途中で、私は分かりきっている事をあえて聞いてみた。
 ……だけど、誰も……何も言わない。
 私はもともと嫌われ者だし、こういう反応にだって慣れてるつもりだった。
 ……けど、今日ばかりは……不安を拭い去る事が……出来なかった。

 ……昨日の……綿流しの晩。
 私がお祭りに現れたのは、誰もが知っている事。
 ひっそりと行っただけならともかく、お姉達のグループに混ざって思いっきり騒ぎ倒してやったから……鬼婆の耳にそれが入るのは、必然なのだ。
 ……そして、園崎詩音は……北条沙都子を、……抱きしめていたのだ……。
 勿論、後悔なんてまったくしてない。……沙都子は、また笑ってくれたのだ。
 ……そして、祭りで合流した悟史君も……笑ってくれた……。

 ……私は……あの時、幸せ……だったのだろうか……?
 ……いや。結論付けたじゃないか。
 あの時の私は、幸せだった。
 悟史君に笑ってほしい。それが叶ったし……何より、沙都子っていう……妹が出来たんだもの。
 悟史君も、私が沙都子のねーねーである事を認めてくれた。
 今まで憎たらしくてたまらなかった存在だった。……それは確かだ。
 ……でも、悟史君が。……沙都子が……笑った時。
 私の心までも……すがすがしい青空にしてくれたのだ。……今まで、灰色だった空。悟史君が、雲の隙間を作って……光を照らしてくれて。
 ……沙都子と悟史君が、一緒に笑ってくれた時……雲は、跡形も無く……消え去ったのだ……。

 そして……お姉に、レナさんに、梨花ちゃまに……圭ちゃんも傍に居てくれて……。
 私は、思いっきり……随分と久しぶりに、心の底から笑顔になれた。
 それは、幸せじゃなければ……きっと出来なかった事。……だから、私は……間違いなく、あの時……幸せだったのだ……。

 ……そうして……ようやく手にしたと思ったのに。
 どうして……また、私から……それを奪うの……?

 ……小さい頃から……ずっと……ずっとそうだった。
 私は何も悪い事なんてしてないのに。私だけが嫌な思いをしてきた。
 ……いや。具体的には……魅音がとてもちやほやされてて……それを受けられない自分が、どうしようもなく悔しかったのだ。
 本当なら、私があそこに居たのに。
 魅音は、私なのに。……私の……はずだったのに……。

 そんな事を、ずっとずっと……思っていた。
 
 ……でも。その時感じた嫌な感じを、全て取り払ってくれたのもまた……魅音……、……ううん、お姉の存在だった。
 私達は魅音であって詩音である存在。
 どっちがどっちかなんて関係ない。……お姉は、私にそう言ったのだ。

 それからも……私達は、刺青を「魅音」に刻まれる前のように、しょっちゅう入れ替わって遊んでいた。
 それだけでも……私にとっては、とても楽しくて……幸せな事だったんだ。

 ……でも、結局私は「詩音」だった。
 私達を見破れない親族供は刺青を見て私達を判断し、「魅音」と「詩音」を隔絶させた。

 魅音は次期頭首として、雛見沢へ行って鬼婆指導の下での修行。
 詩音はわけの分からない学園に強制的に入学させられ、毎日毎日気が狂いそうになるような日課を、さらに強要された。

 ……それが、耐えられなかった。
 学園の生活も、私は大嫌いだった。無理矢理入れさせられた学校なんて、楽しいはずもないのだ。
 それに、私だけ親しい人達とも離れ離れにされた。
 ……それが。……それだけが……どうしても、我慢できなかった。

 だから、私は。……園崎詩音は、興宮に帰ってきたんだ……!

 でも、待っていたのは学園に居た頃よりも窮屈な生活。
 知人に顔を合わすだけでも、魅音に成りすます必要があり、行動の自由はますます狭められたのだ。

 
 ……そんな、生活の中で。
 やっと……やっと、私も……幸せを掴む事が出来るのかもって……そう……思ったのに……。

 ……どうして……?


 どうして……園崎家(あなたたち)は私から……幸せを奪おうとするの……?


 ……ねぇ、嫌だよ。私を……どこへ連れていくのよ……?
 嫌だよ。嫌だ……嫌だ……!!
 今すぐ私を下ろしてよ……!!!

 ……そう、両隣に座っている人たちに……思いっきり叫んでやった。
 でも、彼らは私の発言なんて、まるで最初から無かったかのように……ことごとく無視をするのだ。

 ……ねぇ。どうして無視するの?
 聞こえてるんでしょ? 私の声、届いてるんでしょ?
 何で無視するの? 私は……存在さえも許してはもらえないの……?

 ……無視するってのは……存在を許してもらえないのと何ら変わりないんだよ……?

 あんたら……それ……分かってるの……??






 ……分かってるはずがなかった。
 だって、こいつらは園崎の人間なのだ。
 北条家を。……沙都子を。……悟史君を……!!!
 ずっとずっと……無視し続けてきたこいつらに……私達の気持ちなんて分かるはずがないのだ……!!!!

 ……そう、思ったら。
 全てが……憎たらしくなってきた。
 園崎家という巨大な組織が。
 北条家を破滅へと追い込んでいく村のシステムが。
 ……私達の幸せを奪おうとする……園崎お魎が。
 そして。
 ……園崎の名前を持っている……自分自身の存在が……。


 ……全部……全部……憎たらしくなっていく……。




 ……私は、また何かをしたのだろうか?
 沙都子を笑顔にしてあげようって思ったのはいけない事?
 悟史君に笑顔になってほしいって願うのはいけない事? 

 園崎が、北条を好きになるのは、いけない事?


 私が、悟史君を好きになるのは……いけない事なの……?







 ……ねぇ、教えてよ……。
 ……誰でもいいから……。……私に……教えてよ……。


 ……どうして……?
 私は、小さい頃から今に至るまで、色々な事を制限されて来たんだよ?
 ……もう……いいじゃない……。
 もう……制限しなくたって……いいじゃない……!!!

 私はずっと耐えてきた。
 お姉のおかげもあって……何とか耐えてきたの!!!

 ……それなのに……まだ……制限するって言うの……?



 ……私には……恋をする事さえ……許さないっていうの……?




 ……そんなの……ないよ……。
 そんなの……ひどいよ……!!

 今まで必死に耐えて耐えて、耐え抜いた結果がこれ!!?
 ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなっ!!!!!

 ……圭ちゃんが言ってた。
 努力しなきゃ。
 努力しなきゃ、私は幸せになれないんだ。

 頑張らなきゃ。頑張って、幸せにならなきゃ……!!


 ……頑張れ!! 園崎詩音……!!!!


 ……まずは現状の確認。……私は、車の中を改めて見回した。
 私の両サイドには私を逃がさまいと、黒服を着た知らない男が座ってる。
 もし両ドアから出ようとするならば、こいつらに捕らえられるのがオチ。
 前に行こうとしても取り押さえられるだろう。
 ……ドアから飛び降りるのは、現状無理だ。

 ……そう。……現状では。

 無理ならどうする?
 ……そんなのは、決まってる。
 無理矢理出るための努力をすればいいんだっ!!!

 そう、脳が答えをはじき出した瞬間。
 私の身体は……隠し持っていたスタンガンを取り出し、バチバチと音をさせていたそれをドライバーの首元へと押し当てていた!!!!

「――っ!!!?」 

 バチッと電撃が男に流れた音がして、そのまま彼は気絶した。
 そして、それは当然の結果として……車内に残っている他の二人のパニックを誘発させる……!!
 さらに、車は勢いよく車道を外れて、林の中に突っ込んでいった。
 車は激しくバウンドを繰り返し、車の中はもうグチャグチャだった。
 ……私も中に居たから気持ち悪かったけど、それは他の奴等も同じだ。……それに……この車に乗っている中で唯一私だけがこうなる事を知っていた。
 だから……パニックになっている連中から逃げ出す事なんて……いとも容易かったのだ……!!!!

 私はスタンガンを元の場所にしまいこみ、すぐに前の補助席へと身を乗り出し……鍵とドアを素早く開け、走行中ではあったけど……一気に踏み出す……っ!!!!


 そして、私は左肩から外へ飛び出していった。
 ……着地点には草が何本もあり、衝撃を和らげてくれるクッションとなってくれ、地面に叩きつけられるよりは随分と楽だった。
「――っつ……!」
 それでも、スピードを出していた車から飛び降りるのは……やはり並大抵の事ではない。
 滅茶苦茶にかき回された事で、急激に酔いが回ってきて、吐き気がしてくる……!!
 それに……いくら草がクッションになってくれたからといって、衝撃全てを緩和してくれたわけじゃない。
 私の左肩は切り傷と擦り傷でボロボロになり、所々から血が流れていた。

 ……それでも、骨を折ったわけじゃない。……足も無事だ。
 ここがどの辺りかは知らないけど……何とか園崎から逃げなきゃ……!!!

 ……どうする。
 ここは、興宮から雛見沢へと続く林道だ。
 興宮に行けば、広範囲を逃げる事は出来るけど、園崎の連中はいたるところに居る。
 ……対する雛見沢は、園崎の者は鬼婆とお姉ぐらいしか居ない。
 ……だけど……逃げ道が無いと言っても過言ではないのだ……!!
 ローラー作戦でも取られてみろ、すぐに私は捕まっちゃう……!!!

 ……どっちの道も茨の道か……!!


 ……どうする……!! どうする……!!?



 ……その時だった。
 ……私の前を、草むら越しだったけど……悟史君が。……悟史君が乗った車が、通り過ぎたのだ。
 
 ……そういえば、朝からのゴタゴタですっかり忘れてた。
 今日は……雛見沢ファイターズと興宮タイタンズの試合……。

 ……そうだ、行き先……興宮にしよう……。
 悟史君の試合……見に……行かなきゃ……。


 ……どうせ、ここをどっちに行ったって私は捕まる。
 それなら、最後に……悟史君を見てから……行きたかった。
 野球の練習に、今までずっと付き合ってあげた事もあったし、彼がどれだけ成長したのか……興味があったのも理由の一つだった。

 ……私は、吐き気と痛みでフラフラと歩きながら、興宮へと足を向けて、歩き出す……。
「ハァ……ハァ……」
 ……い、いけない……。もう……息が切れてきた……。
 昔から色々やってきたけど……、……流石に……車から飛び降りるのは初めてだったからなぁ……!
 慣れない事……やっぱりするんじゃなかったかな……。
 ……って、今更後悔したってしょうがないじゃない! ……やっちゃったものはもうしょうがないんだし、せめて……最後の私の自由を……求めよう……!!

「あぁもう、こんな時に葛西が居てくれたらなぁ……!」
 体力がもう限界に近かったし、ここがどの辺なのかもよく分からない。
 葛西なら何度も通った道だろうし、興宮まで車でひとっ走りしてくれるのに。
 ……そんな、多少わがままの入った、軽い気持ちで言ってみた。

「お呼びでしょうか?」
「へ……!?」
 ……そしたら、何と……本当に本人がそこに居たのだ。
 一瞬信じられず、私は素っ頓狂な声を出してぽけーっとした。
「かか、葛西……!? 何でこんな所に……!?」
「……昨日は綿流しのお祭りでしたので……園崎の集まりがあったのです。私もそれに出席しておりまして……。酒が回っていたので、昨夜は雛見沢に泊まっていたのです」
「……で、今日の朝になってこうして興宮に帰ってる……と。……ナイス葛西……! あんた偉いです!」
「は……はぁ……。……まぁ、詩音さんがそう言うのなら良しとしましょう。乗りますか?」
「もちのろんです!」
 そうして、私は葛西が乗ってきた車に乗り込もうと、ドアに手をかける。
 ……その時、気づいた。
 葛西は、いつも黒のリムジンに乗っていたはずだ。
 ……ところが、彼が今乗っているのは普通車。……黒スーツにサングラスが乗るには、違和感バリバリで不釣合いこの上なかった。
 私は、とりあえず質問しようとした口を止め、車に乗り込んでから開いた。
「葛西、いつものリムジンはどうしたんです?」
「あぁ、この車が気になっているのですか? ……いつも乗っているあれは、今興宮です。昨日は詩音さんのお父上に乗せてもらって雛見沢まで行ったもので」
「はぁー。これは借り物ってわけですかぁ。……いやー、車一台貸してくれるなんて太っ腹な人も居るもんですねー」
 ……まぁ、葛西の身分を考えたら別に不思議じゃないけどさ。
 何でも父さんの片腕、母さんの懐刀やってるって聞いてるし、裏の世界じゃ散弾銃の辰由なんていわれてるもんねー。
 ……この際、散弾銃の辰っちゃんにしたらどうだろう?
「ご冗談を」
 運転しながら、葛西が微笑を浮かべて言った。
「まんざらでもなかったりして?」
「遠慮しておきますよ」
 ……ま、普通の反応か。
 私の想像上で、散弾銃の辰っちゃんという別名を掲げた葛西が笑いを堪えるのを必死になっている部下達に命令している姿が映った。
 ……ぷぷ、駄目だ、私も……堪えられないよ……!

「詩音さん」
 私の失礼な想像を察知したのだろう、葛西が少し恥ずかしそうに声を出す。
「行き先はどうします?」
「……」
 ……葛西の一言で、私は……今の自分の状況を思い出した。
 ……そうだった。私は、さっき……連行される途中を逃げ出してきた身だったんだ。
 
 ……葛西は、何も言わなくても普通なら私が隠れ住んでいるマンションへと車を向かわせる。
 それを……わざわざ行き先聞いてきたって事は……つまりは、そういう事なのだ。
 葛西も……これ以上は私に関与できない。……そう、言っているのだ。……だからと言って、すぐにばれるような所においていくようなマネもしない。
 ……ったく、どっちかにはっきりしてほしいですね。

「……前を走ってるの、監督……入江先生の車なんだけど、その車を追って! 今日は……雛見沢ファイターズの応援に行かなくちゃならないから」
「……応援に……? ……失礼ですが、本当にそれでいいのですか?」
「……いいの。私がこうするって決めたんだもん。後悔なんてしないし、葛西を責めたりもしないよ。……どうせ捕まるんなら、……最後に、……ね」
「……分かりました」

 ……葛西はそれだけ言って、それきり無言になった。
 私は、今のうちに……悟史君に手紙でも書こうかと思って、紙とペンを探した。
 ……もう、会えなくなるかもしれないし……、手紙くらいは……いいよね。

「詩音さん」
「……!」
「……メモ帳程度の紙しかありませんが……どうぞ。ペンはボールペンを使ってください」
「……サンキュ」
 私が辺りをキョロキョロとしていると、葛西が胸ポケットからメモ帳数枚とボールペンを取り出した。
 ……こういう時だからこそ、私は……ずっと葛西にお世話になりっぱだったなって、そう思った。
「……葛西とも……会えなくなっちゃうかもしれないね」
「……ご本家がどういう判断をするかによりますから……あり得ない話ではないですね」
「……そう……だよね……。……うん、まぁ……何とかしてみますよ」
「……ご無理だけは……なさらずにお願いしますね」

「……」

 ……その言葉は、私の言葉に対するものじゃなかった。
 私自身(・・・)に対するものだ。……私が今言った可能性は……決して低くなんかない。……そんなのは、自分でよく分かってた。

 ……葛西は、最後まで……私の心配をしてくれるのか。

「……ありがとね」
「……」

 葛西は、何も言わなかった。





 私は紙を置き、車のゆれに注意しながらペンを動かし始める。

『……拝啓、北条悟史君。……って、あれ、拝啓なのに君じゃおかしいですね。
 やり直し。拝啓、北条悟史様。
 沙都子は、元気? とりあえず、笑う事を思い出してはくれたみたいだから、そうであって欲しいんだけどね。
 それから……悟史君は……元気? 今まで、ずっと一人で全部全部抱え込んでたでしょ? 詩音には分かってるんですからね。
 初めて会った時の事……覚えてるかな? 私が不良に囲まれてる時、悟史君……勇気を振り絞って……来てくれたよね。
 ……私を、助ける為に。
 あの時、本当に……嬉しかったよ。
 私はあの時興宮から帰ってきたばかりで、園崎の中でも浮いた存在だったから、結構窮屈な生活をしてたの。
 心はもやもや、もーやってられるかー! って感じかな。例えるなら、私の心は常に雨が降ってるか曇ってるかだった。
 ……でも、あなたが私の前に突然現れてから……世界は一変した。
 あなたという存在は、私のもやもやとした世界に、光を差し込んでくれたんだよ。
 それは、とっても暖かくて……優しかった。
 その光は、私を包んで……喜びと、楽しさと、嬉しさと。……とにかく、色々な事を教えてくれた。
 ……って、……あんまり長くしたら迷惑だよね? ……もうそろそろ、終えますから……最後まで読んでね?
 ……えと。……北条悟史君。……ありがとう!
 あなたは私の全てで、あなたこそが世界だった。あなたと触れ合えて、とても楽しかったよ。
 ……私は、……園崎詩音は。……あなたの幸せを、願っています。
 兄妹で、仲良く過ごしてね。

 ……それじゃあ。    園崎詩音』

 
 ……そこまで書いて、私は……涙が溢れているのにようやく気がついた。
 ……手紙を書いてて……ずっと、ずっと前のようだけど……ほんの少ししか経ってない、悟史君と出会ってからの事を……思い出していた。
 悟史君に、出会えてよかった。
 
 ……笑ってくれて、ありがとう。
 ……笑顔を分けてくれて、ありがとう。
 ……頭を撫でてくれて、ありがとう。
 ……私と一緒に居てくれて……ありがとう。

 ……もう、会えなくなっちゃうかもしれないから。
 ……せめて、最後に……あなたの姿を……見て行きたい。

 ……神様。どうか、お願い。
 私の、最初で最後のわがまま。……きいてよね……?



 ……私は、流れてくる涙を拭って、さっき書き上げたばかりの手紙を広げる。
 ……そして、修正を加えた。
 
 ……よし。これで、完成。


『……拝啓、北条悟史君。……って、あれ、拝啓なのに君じゃおかしいですね。
 やり直し。拝啓、北条悟史様。
 沙都子は、元気? とりあえず、笑う事を思い出してはくれたみたいだから、そうであって欲しいんだけどね。
 それから……悟史君は……元気? 今まで、ずっと一人で全部全部抱え込んでたでしょ? 詩音には分かってるんですからね。
 初めて会った時の事……覚えてるかな? 私が不良に囲まれてる時、悟史君……勇気を振り絞って……来てくれたよね。
 ……私を、助ける為に。
 あの時、本当に……嬉しかったよ。
 私はあの時興宮から帰ってきたばかりで、園崎の中でも浮いた存在だったから、結構窮屈な生活をしてたの。
 心はもやもや、もーやってられるかー! って感じかな。例えるなら、私の心は常に雨が降ってるか曇ってるかだった。
 ……でも、あなたが私の前に突然現れてから……世界は一変した。
 あなたという存在は、私のもやもやとした世界に、光を差し込んでくれたんだよ。
 それは、とっても暖かくて……優しかった。
 その光は、私を包んで……喜びと、楽しさと、嬉しさと。……とにかく、色々な事を教えてくれた。
 ……って、……あんまり長くしたら迷惑だよね? ……もうそろそろ、終えますから……最後まで読んでね?
 ……えと。……北条悟史君。……ありがとう!
 あなたは私の全てで、あなたこそが世界だった。あなたと触れ合えて、とても楽しかったよ。
 ……私は、……園崎詩音は。……あなたの幸せを、願っています。
 兄妹で、仲良く過ごしてね。

 ……それじゃあ。 大好きだよ。    園崎詩音』








 ……それからの事は、あまりよく覚えていない。
 監督と、沙都子と、圭ちゃんと、悟史君が……車から降りて、それぞれの目的の場所に向かってる姿を見て、私も……すぐに傍に行こうと思った。
 ……でも、神様は……私のわがままを、結局はきいてくれなかった。

 ……私は、悟史君に……声をかける事も出来ずに……、すぐに……別の園崎の人達に……無理矢理車に押し込められた。
 ……今度は、スタンガンを没収されて。……足も縛られて、手も縛られそうになった。

 ……だから、私は……最後に、手が縛られる前に……さっき書いた手紙を、車の窓から外に放り投げたのだ。
 ……同じく囲まれ、俯きながら……まゆをヒクヒクと動かして、涙を必死に堪えている……葛西に。

 『……悟史君に渡して』


 ……それだけを、伝えて。






 


 

 たどり着いたのは、期待を裏切らず……園崎本家。……の、裏門だった。
 ……これが意味するものは……一つしか無い。
 ……地下に……私を連れて行く気か……。
 
「……」
 車を降りると、そこには魅音が居た。
 足の戒めのみを解かれ、後ろ手にされた私を、冷たい瞳でじっと見ていた。
「……や、お姉。元気……?」
 私は……怖さを必死に紛らわすために、魅音に声をかけてみる。
 ……だけど、そんな状態で声を出したって……震えるだけで、何の意味もなかった。
 それこそが、私は今……これから先に何があるのかを恐れている最大の証拠であるのだから。
「……まさかこんなに早く再び顔をあわせられるとは思いませんでしたよ。……詩音」
 ようやく口を開いたかと思ったら、魅音の声は……恐ろしく冷たい……他人行儀だった。

 ……ふん。……あくまで……あんたは「魅音」なんだね。

「……詩音。こちらに来なさい」
「……」
 ……魅音はそれだけ行って、どんどん先へ進んでいく。
 私は牛歩でせめてもの抵抗を見せるが、先を行く魅音の鋭い目に、素直に従う他なかった……。

 ……私達は、家には向かわなかった。
 あくまで、私達は「庭」を歩く。……ずーっと、ずーっと。
 それは、裏門から入る事を余儀なくさせられた私がさきほど感じた予感を「現実」のものとするには、あまりに事足りていた。

 ……一歩歩く度に、身体が震える。
 私は、今……地獄へと歩んでいるのだ。
 私の先にあるのは、いわば囚人を処刑するための断頭台。
 ……拷問という名の「けじめ」を、……私は……これからつけに行くのだ……。
 ……そう思うと、再び……足取りは重くなる。
 だって。誰だってそうでしょ……!? これから……自分が拷問受けに行くってのに……拒まない人がどこに居るってのよ!?
 誰も何も言わない。ただ、私にさっさと歩けとばかりを目配せで伝えてくる。
 ……それは、とても嫌な気分だった。

 私は、再び一歩を踏み出してしまった。
 ……ああ、後何歩進んで……何度後悔をするんだろう……?
 あの時……無駄とは分かっていながらでも、どうして抵抗を見せなかったのだろうと。
 どうして、私は素直に従っているのかと。

 ……私は、それを……とうとう、後悔する舞台へと……足を踏み入れる……。


 ……そこは、園崎家の秘密の地下祭具殿。
 防空壕を思わせる厚い扉が開け放たれており、……中から異質なにおいがしてきた。
 そこは、地獄の一丁目。
 踏み込んだら……もう……。


 ……私は、他の者に先導され……ついに、足を……踏み入れた……。



 それから、点々と明かりのついた細い廊下を進み、階段を何段も降りた。
 そこにあるのは、入口ほどではないけれど、見ればすぐに分かる……厚い扉。
 私の後ろや横に居た者達が、その扉を開けるために……前方へ移動した。

 ……この時が、私が逃げる最後のチャンスだった。
 横と後ろの監視が消えた今、逃げるのはとても容易い事だったのだ。

 ……だけど、その時……私は恐怖で頭が一杯で、そんな事に……気づけなくて。
 それに気づいたのは、全てが……手遅れになるためのカウントダウンを始めてからだった。

 私が足を踏み入れたその部屋は……明らかに、他の部屋と比べて……おかしかった。
 片側半分がお座敷になっていて、そこには……園崎家のお偉いさんと思われる人が十数人……気味が悪いほどに黙って、無表情だった。
 そして……もう片側は、お風呂場を思わせる……タイル張りの広い空間……。

 ……何、これ……?
 何で、こんな、部屋の、構造、……してるの……?

 おかしいでしょ……? ホースは一本だけあるみたいだけど、それを使うために……タイル張りにする必要なんて……無いでしょ……?

 ……いや、分かってる。分かってるよ。
 ……否定したいだけ。頭の中を、ぐるぐると駆け巡る……恐ろしい想像を、消し去ってやりたいだけなんだ。
 ……せめて、現実として……それを受け入れる前に。

 私の目の前にあったのは、何に使うのか分からないような……大工道具のような物が置いてあって……。
 ……そして……その異質な道具は、……むき出しになっている鋼部分の光沢が、さらにそれを不気味なものへとイメージを変えてゆく……。

 ……間違いない、これは、……これは、

 ……この、歪な形をした……これらの道具はっ……!!!!


 ……紛れも無い……拷問具なのだ……。



 この、タイル張りの部屋は……流れた血を流すのに都合がいいように……。
 ……あのホースは……流れた血の始末を……さらにしやすくするために……。

 ……あぁぁあぁぁあ、私の中で……この部屋と、目の前の拷問具が何を意味しているのかが……時間が経つに連れて鮮明になってゆく……。

 ……もう、完全に腰が引けてしまって……立っていられなかった。
 ……けど、両腕をガッチリと捕まれてしまっていたため……へたり込む事すら……許してもらえない……。

 私は……その、おぞましい拷問具達の前に……強制的に……移動させられていく……。



「……こんのだぁほが……。ようその面下げてもどってきとっとん……」

 ……座敷の奥で……鬼婆が低く言う。
 それは……言葉自体には大した暴力的なものはないというのに……聞くだけで全身が震え上がる……恐ろしい声だった。
 ……その声を聞くだけで……全てが分かった。

 ……鬼婆は、私が学園を抜け出した事くらいは……大目に見てやろうと思っていたのだ。
 ……私の性格を考えれば、早かれ遅かれこうなるだろうと……きっと……そう思っていたのだろう。
 そこまでは良かった。……そう、そこまでは……。

 ……だが、昨日……私は決定的な事を……したのだ……。

 ……後悔なんて、していない。私は、そう思っていた。
 だけど、今更になって……後悔の念が……津波のように勢いをぐんぐん増して……押し寄せてくる……。

 ……沙都子……。
 北条家の娘である、北条沙都子を……抱きしめた事……。


 ……何でそれが、こんな事になるのかなんて……わたしには分からない。
 でも、ルールは鬼婆であり……鬼婆がこれは駄目だと言えば駄目なのだ。
 北条の者と遊ぶだけならいざ知れず……兄に恋をし、妹へは手を差し伸べる……。

 ……何を考えているんだ、こいつは。
 ……そういう、解釈が……行われるのだ。


 それは、あまりに理不尽ではあったけど。
 ……でも、ルールがそう言うからには、従うしかないのだ……。
 鬼婆がルールであり続ける限り。
 ……これは、絶対に……変える事なんて……出来ないのだ……。
 ……なら……従うしかないの?
 私は。……いつまでも、こんな理不尽なルールに従って生きるしかないというのか?

 ……違う。
 それは……断じて違う……!!!

 ……何度、この言葉に励まされたか。
 圭ちゃんは……確かに言ったのだ……!!!

 頑張った者にこそ……真の幸せが与えられるのだと!!!!!

「沙都子が……悟史君が何をしたって言うのよ……!!! あの二人はダム戦争には関係ないじゃない!!! それを」
「しゃあらしい!!!」
「五月蝿いっ!!! 人が話してるんだよ、最後まで聞けクソ婆ぁあ!!!! いいか、悟史君はね、ずっとずっと努力を怠らなかった!!! 北条である自分が認めてもらうにはどうしたらいいのかって、それに悩みながら……さらに……叔母の虐待に耐えながら……それでも、一生懸命頑張って生きていた!!!! それを何!? あんたら園崎は北条家というだけで悟史君を……沙都子さえも!!! 虫けらのように扱って!!!! いい!!? 悟史君も沙都子も人間なの!!! あんたらと同じ人間なのよ!!!!」
「しゃあらしいっちゅうとるんね!!!!」
「五月蝿いって言ってるのが聞こえないのかクソ婆ぁぁぁあ!!!!!」

 ……北条家の人間んと自分が同じ人種であるという事すら腹が立つのか。
 ……ほんっとに馬っ鹿みたい!!! あんたみたいなのを人間のクズって言うのよ!!!

「悟史君は優しい人だった!!! とても……とても努力家で、何でも自分でやろうって、そんな人なの!!!! それを何!!? あんたらは人の内面を見ようとせずに名前ばかり気にして!!! 北条が何だってのよ!!? 園崎が何だってのよ!!!? あたし達も悟史君達も同じ人間なの!!!! どうして彼らを認めてあげないの!!? 親を失ってまで彼らは健気に生きているんじゃないの!!!! それを……さらに追い詰めるようなマネをして面白いのか!!!? いいか、悟史君も沙都子も!! あんたらの玩具じゃないんだよ!!! 彼らは彼らの意思を持ってちゃんと日々を生きてるの!!! どうしてそれを認めてあげないの!!!? どうしてそれをちゃんと見てあげないのっ!!!!?」

 ……もう、自分でも何をしているのか……よく理解できなかった。
 私は、必死になって……悟史君と沙都子を……弁解していた。
 それに、意味なんてものは……ひょっとしたら、無かったのかもしれない。
 ……でも。言わずには居られなかった。……叫ばずには居られなかった!!!

 人は名前や外見だけで全てを見極める事なんて出来ない。そんなのが出来るのは神様だけだ。
 だからこそ、人は、人を知ろうとする。その人を知って、その人の温もりを感じて、初めて人は人を知るんだ……!!
 鬼婆は、それをしようとしない。
 自分が居る地位のためなんだか園崎の家訓なんだか知らないけど、それを初めからしようとしていない……!!
 そんなのはわがままを言って食わず嫌いをする子供と何ら変わりないのだ。
 ……園崎お魎ともあろうものが、そんなんでいいのか。

 ……私は、それに……気づいてほしかった。



 ……自分の保身のためでも、勿論あった。
 でも。……何よりも……悟史君達を、認めてほしかった。
 悟史君を。沙都子を。……二人を、馬鹿にするな。
 彼らに罵倒文句でも言ってみろ。……私が……絶対に許さない。

 ……そう、思ってはいる。
 ……だけれども、ガッチリとつかまれた両手は、私の意志を反映した結果を導いてくれないのだ。
 だから……私は、叫ぶ事以外に何もできない。
 ……でも。叫ぶ事が、私には出来たのだ。

 だから、叫んだ。
 何度も、何度だって……叫んでやった。

 鬼婆は私の態度が気に入らないようで、目が充血して真っ赤だ。
 ……対する私もまた、流した涙のせいで目が真っ赤になっている。
 鏡なんてここにはなかったけど、感覚的にそう感じた。

 ……でも。
 私の抵抗なんて……初めから無駄だったのかもしれない。
 そうだ。……最初からそうだった。
 この、園崎本家の敷地に入った時から。……いや、ひょっとしたら……興宮に帰ってきた時から。
 私は、本家に何度も抵抗の意志を見せる時に直面した。
 そして、今回はそれが決定的だっただけ。

 ……私の抵抗なんて……やっぱり、無駄なのか。
 ……圭ちゃん、頑張ったら……幸せになれるんじゃなかったの……?
 私……幸せになりたいよ。……こんなひどい扱いなんて……もう嫌だよ……。

「……詩音」
「……魅……音……」

 私が泣きじゃくって、叫ぶのを止めると……魅音が私の耳下でささやいた。
 ……その声は、次期頭首としてものではなく……園崎魅音として発せられたものだった。
「……ごめん……。本当に……ごめん……。……何も……できなくて……ごめんね……」  

「……」

 ……魅音の言葉には、わずかに……嗚咽が混じっていた。
 ……おそらく……自分が位置している場所と……場が場だけに、私と一緒に泣きじゃくって抵抗を見せる事が出来なくて……悔しいのだ。
 ずっと……ずっと、私達は魅音であって詩音であったから。
 私は、……感覚的に……それを悟った。

 ……そして、目の前の拷問具の……「必要性」にも、……今頃になって、ようやく気づいた。
 ……これによって、「けじめ」をつけろというのは、つまり。
 ……葛西や……義郎おじさん……。……お世話になっている人に迷惑をかけたくなかったら、自らの身を削れと……そう……言っているのだ……。
 ……恩を仇で返すのか。……私は、そんな事をしなくちゃ生きられないのか?
 その先に手に入れた幸せが、果たして圭ちゃんの言う「真実の」幸せなのか。

 ……そんなのは、自問自答をするまでもなかった。

 ……私は、もう何も言わなかった。……いや、言えなかった。
 私が思い描いていた、身勝手な考えは……結局は「理想」でしかないんだ。
 現実は、目の前に広がっている光景。

 ……拷問具に囲まれて、けじめをつけろという、……私の心をとことんまで挫くために用意された……現実なのだ……。

「……詩音。頭首に……謝りなさい」
 ……気づけば、魅音は次期頭首の顔に戻り、次期頭首としての任をまっとうしていた。
 ……ここで、まだ私が喚くようなら。
 ……情け容赦なく、飛び火は葛西や義郎おじさん、……沙都子や……悟史君へ飛ぶだろう。
 そんな事は……絶対に駄目だ。
 私は……うなずくしかない。

「……ご……ごめ」 



「詩音んんんっ!!!!!」


 ……その……時だった……。


 ……だ……れ……?




 ……どこかで……聞いた事のある声だった。
 ……バタバタと、荒々しく誰かが走ってくる音がして、どんどんこちらへと近づいてくる。
 
「……また扉だ」
「どいてろ。……せぇのぉおっ!!!」



 ドオオォォオン!!!!


 それから、すさまじい音がして……分厚い扉が、中心からへしゃげて床に転がっているのが見えた。
 それと同時に、かなりの風圧が押し寄せてとほこりが舞い、視界を悪くした。

 舞い散ったほこりが晴れて、二人の姿は私の目にはっきりと映った。
 ……そこに、居たのは……。

「……間に合った……みたいだな……」 
「……詩音……、……っ詩音!!!」

「圭ちゃん……悟史君……!!!」

 そこには、金属バットを片手に悠然と立っている圭ちゃんと、……紛れもない……悟史君が……居たのだ……!!

 ……信じられなかった。
 圭ちゃんが来てくれた、というだけでも驚きだというのに。
 ……まさか、悟史君も……来て……くれるなんて……!!!

「け、圭ちゃん……悟史も……」

 二人の姿に、皆が皆……信じられないというような顔をしていた。
 ……それはそうだろう。
 ここの扉もそうだが、入口の扉はまだ分厚く、破るのにはそうとうな力を必要とするはずなのだ。
 ……私は、圭ちゃんの持っていた――おそらく悟史君の――バットを見た。
 ……まるで、何年も何年も使い古したかのように、ベコベコになっている。

 ……それは、つまり……あのバットで扉を破って……ぶち破ったという事を……如実に示していて……!!

 ……夢を見ているようだった。
 あんな、どこかで売っているような……金属バットで。
 あんな分厚い扉が……破られるものなのか……!?
 ……いや……今は、それに感謝すべきなのだろう。
 おかげで……私の心を支配していたモヤモヤは……再び、……今度は……一瞬にして、消え去った。

「詩音!!!」
 悟史君が、私の名前を呼びながら……駆け寄ってくる。
 それは……私が、何度夢に見た光景だったか。
 ……悟史君が、私を……ちゃんと「詩音」として認識してくれて、名前を……呼んでくれる事……。
 今まで、寺に閉じ込められるという意味で名づけられたために忌み嫌っていたこの名前が……ようやく、私にとって意味を成した瞬間だった。

 それに対して、私の両腕を捉えていた二人の男がとっさに戦闘態勢をとり、悟史君に殴りかかる。
 ……だけど。……悟史君は、スピードをまったく落とす事なく、私の方へと走ってくる。
 あ、駄目だよ……!! それじゃ、攻撃があた――。
「……え……?」
 次の瞬間私が見たのは、悟史君に殴りかかりに行って……逆に、宙を舞う羽目になっていた、二人の男だった。
 悟史君が進む道をさえぎっていた彼らを、圭ちゃんが……いつの間にか彼らの前まで移動して……一人は投げ飛ばし、一人には突きを繰り出していたのだ……!!
 ……そして、悟史君は何事もなかったかのように、私のもとまでたどり着く。
 ……まるで……圭ちゃんが必ず二人を自分の前から排除してくれると確信していたかのように……!
「詩音……!」
「……あ、」 
「……大丈夫……? 何かされてないかい……!?」
「う……うん……! 大丈夫、大丈夫だよ……悟史君……」
 ……私の目は、再び……涙で潤った。
 さきほどまで流していたものとは……違う……涙で……!
    
「……詩音」
 悟史君に続いて、圭ちゃんも私の元へとやってくる。
「……助けにきたぜ」
「……圭……ちゃん……っ」
 ……どうしてここに圭ちゃんが来る事が出来たのか。
 ……どうしてここに悟史君が居るのか。
 すぐに、彼が色々と手をうってくれたのだと分かった。
 それから、圭ちゃんは耳元でささやくように、小さな声で言う。 
「後で……葛西さんに礼言っときな。俺達はあの人に連れてきてもらったんだからな」
「葛西が……?」
「……うん。葛西さんは僕を『北条悟史君』って言って、『詩音さんをよろしくお願いします』って言ってたよ」
「葛西が……北条(・・)悟史君って……そう、呼んだの……?」
「うん」
 ……は、はは。
 ……そう……か……。
 ……あは、ははは……!!
 葛西……あんた、悟史君の事……認めて……くれたんだね……。
 ……これほど……嬉しい事は、今までになかった。
 悟史君の存在を、「北条」を、葛西が……認めてくれた……。
 私の言う事は何でもきいてくれた葛西だけど、悟史君を苗字を合わせて呼ぶ事はなかったのだ。
 ……その、葛西が。
 彼を……北条悟史君と……呼んだのだ……!!

「……悟史。……ベコベコになっちまったけど、これ返しとく。……詩音、ちゃんと護ってやれよ」
「……うん」
 圭ちゃんは金属バットを悟史君に返す。
 ……それから、悟史君は私に寄り添って辺りを警戒するかのようにしゃがみこんでいた。
 バットを返した後、圭ちゃんは振り返り、鬼婆へと向かって歩き始める。

「待ちな」
 ……すると、その圭ちゃんを阻止すべく……今まで座ったままだった母さんが立ち上がり、声をかけた。
「……何だよ。俺が話しがあるのは現頭首であるそこの婆さんだけだ」
「あんたに無くても私にゃあるのさ」
「……」
「……」

 二人とも……互いをにらみ合い、放っておけば視殺してしまいそうな眼光を……向け合っている。
 どちらも視線を外そうとしない。……まばたきすらしていないんじゃないのかというくらいに……視線を……、瞳を……動かさない。
 ……辺りは沈黙だけが流れ、誰も……何も言わない。
 皆の心境も……違いに差はなかった。

 園崎のお偉い方は、魅音、鬼婆を含めていたって冷静。
 母さんが立って、圭ちゃんを睨みつけている以上何も心配する事などないと……そう物語っている。
 ……そして、皆の平静を約束している存在……園崎茜、私の母さんも冷静そのもの。
 ただただ、黙って圭ちゃんをにらみつけている。
 対する圭ちゃんも、うちの母さんの眼光にまったく臆する事なくにらみ返している。その瞳からも、圭ちゃんがいかに冷静かが伺える。
 そして、私の傍でじっと二人の様子を見ている悟史君も、冷静だった。
 ……私はというと、この沈黙が……逆に気味が悪く、さっきまで心臓に悪い展開の真っ只中に居たので、とてもじゃないけど冷静になんてなれない。
 ……それに気づいて、私はようやく……この沈黙の意味を知った。
 この場に居る者は、私を除いて皆……驚くほど冷静だったのだ。

 皆が皆、母さんと圭ちゃんのにらみ合いを……ただただ見つめていた。
 ……静かに、時が流れる事すら忘れて。

 それは……まるで、時間が止まってしまったようだった。
 誰も何も言わないし、動かない。
 これ以上ないくらいに、「時間が止まっている」という表現が似合う光景。

 ……そんな、永遠に続いていきそうな空間を最初に壊したのは……圭ちゃんだった。
 頭を掻いてやれやれ、と言ったような顔をし、一旦閉じた目を再び開いてから……母さんを見つめる。

「俺に何のようだ?」

 ……地下であるにも関わらず……その瞬間、ザァッと風が吹く。
 ……そうか、圭ちゃん達が……扉をぶち破ったから、山中に続いている……地下井戸の横穴までの風の抜け道が出来たんだ。
 ……圭ちゃんの髪が揺れ、母さんの髪もまた、揺れる。

「……まずその態度……気に食わないね。人様の家の……しかもこんな所まで押しかけてきてその態度は何さ? 不愉快この上ないね。さっさと出て行ってもらおうか」
「そいつは出来ない相談だな」
「相談じゃないよ。これは『命令』だ。さっさと出ていきな」
「悪いが聞く耳持ってないんでね。どっちにしろ無理だな」
「……」

 圭ちゃんの態度は……確かに、無礼この上なかった。
 ……母さんじゃなくて、『園崎茜』の前で……あのような態度を取る人なんて私はいまだかつて見た事がない。
 それはとても失礼で、園崎茜の逆鱗までの一線を、軽々と越えてしまうほどのものなのだ。
 
 園崎の連中なら、そんな事はしない。
 他の連中も、そんな事はしない。

 何故って、『園崎茜』を、他の人は知らないから。
 彼女を知っているのは園崎の人間だけ。……だから、園崎では無い者は『園崎茜』にまず会う事が出来ない。
 そして、園崎の者であるならば、『園崎茜』をその目で見る事になる。
 本当の母さんを知った人は、皆すくみあがる。
 ……母さんは、園崎の誰よりも話術に長けている。
 言い負かされる事を、ほとんど知らない。あったとしても、まだまだ……ずっと前、不慣れな時に一度二度程度だろう。
 ……でも、今の母さんは経験も実力も完璧なまでになっているのだ。

 母さんが口を開けば、かなう人なんて誰も居ない。
 園崎の間では、それが常識となっていた。

 ……だからこその、ここに居る園崎の連中の平静だ。
 
 それに……どうやって立ち向かおうっていうのよ……!?
 ……圭ちゃん……!!!
「……大丈夫だよ」
 その、不安を……読み取ったかのように。
 悟史君が、口を開いた。
「……え……?」
「圭一は、絶対にやり遂げてくれる。……僕はそれを信じている」
 ……それは、普段私が見たこともないような……悟史君だった。
 自分の思いを、自らの意思で、はっきりと口にした。
 圭一なら大丈夫だ。だから、自分達は安心して彼の後ろから、彼を支えてあげればいい。

 ……そう、言っているのだ。

 ……そして、私は目が覚めた。
 圭ちゃんは、私達のために……ここまでやってくれたんだ。
 それなのに……私が彼を信じてあげなくて……どうするの……!!!
 悟史君はもうとっくにそうしている。
 圭ちゃんならやってくれる。……そう。たとえその相手が『園崎茜』であろうと、必ずやってくれるはず!!!

 信じよう。

 悟史君の言葉を。

 ……圭ちゃんの言葉を!!!!



 *     *     *

 
 ……さーて……乗り込んだはいいが……この状況はいただけねぇな……。
 頭の硬いご頭首様とやらの耳に直接俺の声を叩き込んでやろうと思ったが……またとんでもない奴が出てきやがった。
 俺を睨みつけてくる、この視線。
 そして、幾度もの修羅場をくぐってきたという事実を如実に語る、この風貌。

 ……正直、これほどの人と相対する羽目になるとは……流石に予想外だった。
 この勝負は……一瞬の隙が命取りであり、それを見せた方が確実に負ける勝負となる。……いや、相手はそうかもしれないが……果たして俺も同じ条件下にあると言えるのかも疑問しなければならない。
 この人の話術は本物だ。少し相手をしただけではっきりと俺は感じ取った。

 ……威圧されただけでも、押しつぶされそうになる。
 物凄い圧力が視線に乗って、俺のもとへと突き刺さるのだ。……それは、とても重かった。
 俺一人であったのなら、一刻の猶予すら与えずに俺は崩れ去っただろう。
 ……だが。俺の後ろには、俺にとって大切な人が二人も居るのだ。
 
 俺は、誓った。

 悟史と詩音を、必ず幸せにしてみせると。


 一つ目の誓いは、結局果たす事が出来なかった。
 ……二つ目の誓いも、詩音の協力があってこそ……成就したのだ。

 ……このままじゃ、駄目だ。俺は……何も変われない。

 ならば。……せめて……三つ目の誓い。
 これだけは……!! ……俺が!! 俺自身の手で!!! 成し遂げなくてはならないのだ!!!!

 それだけが、今の俺にとっての糧だった。
 俺は、心から願っている。
 今まで……傷つき、孤独の中で生きてきたからこそ。
 もう、そんな嫌な思いをする必要は、一切ないのだと……確信しているからこそ……!!!
 俺は二人を……必ず幸せにしてやらなければならないのだ……!!!!

 俺は、わずかに底に残った勇気を奮い起こす。
 ……この勇気は、さっき悟史から受け取ったものだ。……そうさ。俺は一人じゃない。
 今、この瞬間も……!! 悟史も、詩音も……俺と一緒に戦ってくれているのだ……!!!

 俺は相手の出方を伺いつつ、口を開いた。   
「……ま……暴力的なマネされるよりは……口で解決できる方が俺にとっちゃありがたいけどな」
「……言うね……ひよっこの分際で」
「……後悔するのはアンタの勝手だ。選択を間違えないようにせいぜい頑張るんだな」

 俺は、出来るだけ威勢良く言葉を並べた。
 下手に出ればその時点で負け。いいように相手の話術にはまり、結局出て行く羽目になるだけだ。
 そんな、結果が目に見えている事をわざわざ俺がしてやる必要など皆無だ。
 威勢を張れば張るほど、俺の勇気すらもさらに奮い起こされていく。
 ……そうさ。ハッタリだろうと何だろうと構わない。

 この人をよく観察してみて、俺は次に辺りを見回した。
 顔も知らないような、……比較的年を取った奴等が十数名。……まるで、俺達を動物園の檻の外から見物するかのように、悠然と座っていた。
 そして……気味が悪いくらいに、誰も……何も言わない。皆、冷静そのものだった。
 その事実からは、こいつらから目の前のこの女性への、絶対的な信頼を感じ取る事が出来た。 
 彼女ならこんな小僧の一人を黙らせるくらいなんて事ないのだ。我々が慌てる必要なんてどこにもない。
 ……そう言ってやがるのだ。

 ……そして、それは確かに納得のいくものだった。
 この人を相手にするのなら、半端な覚悟じゃだめだ。もしも軽はずみで相手をしようものなら、遠慮も同情も一切無くポッキリと折られてしまうのだ。
 ……だが。俺の覚悟は、半端であるつもりはない。睨みつけられたくらいですくみ上がるような、そんな安っぽいものでは断じて無い!!!!
 俺はこの人を超える。……そうじゃなきゃ、誰も幸せになんかなれない。

 ……この人は、その姿から……魅音と、詩音の母親であろう事はすぐに分かった。
 本来ならば、この人も自分の娘が拷問を受けるなど……耐えられるはずがないのだ。
 だが、自分が居るのは園崎家であり、そこのルールには絶対的に従う必要がある。……だからこそ、彼女は今仮面を被って俺の前に立ちはだかっている。
 
 ……なら、話は簡単だ。

 その仮面を……俺が引っぺがしてやる……!!!
 園崎家の者としてではなく……この人自身の考えを!! 意見を……!!! 絶対に……その口から言わせてやる……!!!

 それが……俺に出来る精一杯であり……最大の攻略ポイントとなる……キーなのだ……!!!



 俺は掌を握りしめた。
 爪が掌に食い込むぐらいに、ぎゅっと握る。
 俺が、何者にも恐れないように。……全てを終わらせるまで、俺自身も痛みを味わっていく道を、背後に居る二人と共に選んだという事を……忘れないように!!
 俺は静かに口を開き……言葉を並べる。

「詩音は俺達が連れて帰る」

 ここで、一時の間があく。
 このガキは……とうとう言いやがった。……周りから受ける視線は、それを俺に伝える。
 だが、俺はそれら全てを無視してやった。
 今、周りを気にしている余裕などない。
 目の前に立つこの人を上回らない限り、突破口は開かれないのだからな……!!!

「……勝手な事をされちゃ困るね。私達はその子に用があるんだよ」
「それこそ俺からすれば『勝手な事』だ。俺の許可無く勝手な事をするんじゃねぇ」
「屁理屈を並べるのが上手いね。悪いが私達は屁理屈に付き合う時間なんて無いんだよ。それなのにペラペラペラペラとやかましい……。……大人をからかうのがそんなに面白いかい?」
「からかってるつもりはまったく無い。こんな局面で冗談なんか言えると思うか? ……そっちこそ、勝手な解釈をしやがって、俺をからかってんのかよ?」
 
 間違った事など言っていない。
 実際に俺はこの人も、園崎の人達もからかっている気など毛頭無いのだ。……そう感じるのはあくまでそっちであり、それは奴等が勝手に俺の気持ちを誤認しただけなのだ。
 俺からすれば、こいつらが俺をからかっているようにしか思えない。ふざけるのも対外にしろと今すぐ言ってやろうか、とも思った。

「生言ってんじゃないよ!!」

 俺が実際に言ってやろうと口を開いた……その瞬間。
 鋭い声が、地下の建物内にビリビリと響いた。

「さっきから聞いてりゃ何だい? 人の揚げ足を取る事ばかりをあんたは言うね。それこそ私達をからかっている何よりの証拠さ!! そんな事はガキのする事。あんたもこんな所まで押しかけてきたんだ。ちっとは大人のやり方ってのを覚えたらどうだい!? そっちがどう思ってるのかは知らないけどね。私はあんたがただ私達をコケにするために来たようにしか思えないのさ!」
 そこから連続してたたみかけられる、言葉による攻撃。
 俺は一瞬ひるみそうになるが、そうする事すら許される局面では無い事をとっさに思い出し、持ちこたえる。
 ……は、揚げ足を取るだと? 今更何を言ってるんだ。
 言葉による攻撃ってのは……人の揚げ足を取って取って取りまくった方が勝つんじゃねぇか!!!
「……最初に言ったはずだぜ? 聞く耳持たないってな」
「ほう……? その割には私の話に返事を返してくれるんだね。聞く耳を持たないんじゃなかったのかい?!」
「は。……はははは!!! おいこら、そこで聴いてるクソジジイ供にクソババア!!! 今の聞いたかよ!? はははは!!!」
「……何がおかしいのか……教えてもらおうかい」
「おかしいに決まってるだろ!! だってよ? さっき自分で言ったんだぜ? 『揚げ足を取るのはガキのする事。ちっとは大人のやり方を覚えろ』ってな! ……あんたが揚げ足取ってるじゃねぇか! ぷ……っははははは!!! こりゃ傑作だ!! 笑わずにはいられねぇな!!!」
「……それで私を捉えたつもりかい?」
「……」

「……特別にもう一度だけ教えてあげようじゃないか。あんたが言ってるのは全て屁理屈。……それ以上は決してなく、それ以下でしかない」
「あぁそうさ。俺が言ってるのは屁理屈だ。……だからそれがどう」
「――認めたね」

「……ぇ」

 それまで、ひたすらに冷徹な表情をしていた……その人の表情が……わずかにゆるむ。
 ……それを見て、……それでも、まだ俺はそれがどうしたんだって思っていた。
 だが、俺がそう言った事は……最早、修復が困難になるほど決定的な一言だったという事に……次の一言に俺は気づかされる……!!!

「言ったはずだよ。私達は屁理屈に付き合う時間なんか無いのさ。……あんたはさっきから屁理屈しか言ってない。あんた自身もそれを認めた。そして、私は付き合う時間が無い。……それなのに屁理屈を並べるってのは単なるわがままじゃないのかい!?」
「――!!」
 ……く……!!
 ……しまった……!!!
 俺は……とんでもない……墓穴を……!!!

「分かったらさっさと消えな!!! 二度と近づくんじゃないよ!!!」

 ……だ……駄目だ……。
 もう……決定的だ。これ……以上は……。
 ……無理なのか。所詮……俺は……この人を上回るなど……できないのか……!!?
 く……そ……!!
 畜生ぉおぉおっ!!!!!

「……圭一」
「――っ!」
 ……後ろから……悟史の声。
 俺は……ビクリと反応し、……ゆっくりと振り返る……。

「頑張って」

「……ぇ、」
「……私達は、圭ちゃんを……信じてますよ」
「圭一は負けない。君はやると言ったら必ずやる人だ。それは、僕も、詩音も、分かっているから」
「信じます。最後の最後まで、私達はあなたを信じる」
「「だからこそ、僕(私)達はここに居るのだから」」

「――!」

 俺は、不覚にも……敵に背を向けている事に気がつき、再び身を翻し、目の前の「壁」を直視する。
 
 恐怖も怯えも、消えた。

 俺はこの人には勝てないわけじゃない。
 可能性は無限にある。未来へと続く可能性は、俺達の前に何本も何本も並んでいる……!!
 その中に……たった一つだけある、幸せへの道。

 ……目の前の壁に……それを、消されるか。……それとも、守りきれるか。
 全ては……俺にゆだねられている……!!!

 ……あきらめない。
 俺は、絶対にあきらめない!!!

「その通りなのです!!!」


「……え……、」

 俺と、悟史と、詩音が。……いや、この部屋に居た全員が、聞き覚えのあるその声に反応し、あるものは振り向き、あるものはその人影を見上げた。
 そこには人影が二つあって……、俺には……それが、信じられなかった。

「ねーねー……!」
「さ……沙都子……っ!!」
 
 それは、紛れも無く、

「……元気なさそうだけど、ご機嫌はどうかしら?」

「ふ……古手さん……!!!」

 古手梨花さんと、北条沙都子の姿だった。

 ……二人の姿を見て、俺は直感した。

 沙都子が……ここに行きたいと、そう言ったのだ。
 古手さんは自分から沙都子を危険な場所へ連れていこうとは思わない。
 それは、つまり……沙都子が……ここへ来たいと古手さんに告げた事を……明らかにしていたのだ……!!
 そして、沙都子だけが行くのは危険すぎるし、案内として……自分もここへ来た。
 ……そうさ……。古手さんは確かに言ったんだ。

 俺と一緒に……戦ってくれると……!!

 俺は彼女と一旦別れた時に、「沙都子と一緒に居てくれ」と言った。
 沙都子を一人で心配させるのはよく無いと思ったし、古手さんを危険な目に遭わせたくなかったからだ。
 ……でも、それは間違いだった。
 彼女も戦いたかったんだ。俺の隣で。……俺と一緒に……!!
 でも、俺から……頼まれたから。沙都子の傍で、自分も一緒に待つ事を選んだ。……いや、俺が強制させてしまったのだ。

 ……だけど。沙都子も、自分と同じ思いだったのだと……知った。
 それから後は、もう身体が勝手に動いていたのだろう。
 ……古手さんは、昨年の事を悔いていたから。……だからこそ、今年も何も出来ないで……また後悔するのが嫌だったから……。
 何より……俺達と一緒に戦えない自分が……許せなかったから……!!

 ……俺は、古手さんを見た。
 その、凛とした表情は……俺にさらなる勇気を与えてくれる……!!!

「……にーにー……!! ねーねー……!!」
 ……その時、古手さんの後ろで震えていた沙都子が……わき目もふらずに詩音と悟史のもとへ駆け寄った。
 顔は半泣き状態、いまにも泣き叫んでしまいそうな状態で、それを必死に堪えているような感じ……。
 ……そう……か。
 沙都子も……北条の人間だ。……ここに入る事は……きっと、凄く勇気が必要だったんだ。
 ずっとずっと……北条というだけで白い目で見られてきた、悟史と……沙都子。
 その、元凶をつくった言える人間が、目の前に居るのだ。
 ……勿論、怒りもあっただろう。……でも、沙都子ぐらいの年齢だと……恐怖の方が先に押し寄せるに決まっている。
 村人に白い目で見られているのとはまるで違う。……目の届かない所ではなく、目の前にその存在があるのだ。
 それは、どれだけ……沙都子の心を挫こうとした事か……。

 ……でも……沙都子は勇気を奮い起こしたんだ。
 ……にーにーである、悟史の為に。……ねーねーである……詩音の為に……!!
 
「ね……ねーねーをいじめないでくださいましっ……!」 

 それから、沙都子は二人の前で両手を広げ、精一杯のにらみ顔でそう言った。
 ついに涙は流れ始め、もうどうしようもなく……止まらない状態になっているようだった。

 ……怖い。こんな事をすれば、自分はまた何かをされるに違いない。
 そんな事は、誰が見ても明白。
 園崎家の地下祭具殿に足を踏み入れたのだ。……悟史と、沙都子が。

 俺は現頭首である園崎お魎を視界に入れた。
 ……その顔は怒りに満ち満ちており、目の前で反抗的な態度を取っている沙都子を、今にも食い殺してしまいそうな形相。

 ……それでも。そんな恐ろしさの象徴を目の前にしても。
 沙都子は、臆さない。

 確かに涙は流している。……けれど、その目は、

「……私も……。……私も、ねーねーを守る……!!」

 前だけを……まっすぐ見つめていた……!!!!


「……圭一。どうやら……まだくすぶっているようだから……一言、あなたに言っておくわね」
 その姿を見た古手さんは、少し経った後俺に微笑んでから……静かに言った。

「もし、再び忘れているのなら。……思い出させてあげるわ。……この……言葉によってね」
「……?」

 ……古手さんはスゥ、と息を吸い込み……それを、一気に……声と一緒に吐き出す……!!

「……あなたの名前は前原圭一! ……『口先の魔術師』……前原圭一よ!!」

「――っ!!」
  
 その、言葉を聞いた瞬間。
 俺の脳は……一気に必要容量を……増やしていった。

 ……手八丁とはいかずとも。
 口八丁だけで、幾度も修羅場を潜り抜けてきた。

 ……今までくすぶっていた、昭和53年の、ダム戦争の記憶。……それが、俺の中に……一気に流れ込んでくる……!!!


 ……そうさ。
 俺の名前は……前原圭一。
 突然昭和53年の6月に連れてこられ、ある宿命を与えられた。
 
 それは、言い表すにはとても簡単で、実行するまでに大変時間がかかった事。

 ……雛見沢を、ダムの脅威から救い出せ。

 それが……俺の使命だった。
 その時から、俺は『眼』という心強い味方を手に入れた。
 眼のおかげで潜り抜けたピンチも何度もあった。

 ……だが、俺が雛見沢がダムの底に沈まないようにあれこれやった時は……必ず得意の口先を使って相手をねじ伏せてきたんだ……!!
 それは、公の場であり、暴力を一切許さない、話し合いの場。
 この時ばかりは眼はあまり必要としなかったが、だからこそ、この眼は俺にとってうってつけだったと言える……!!

 口先は、俺自身が初めから持っていたスキルで切り抜け……。
 荒事では、眼を使って解決していく……!!

 その、口先を使って場を切り抜ける必要がある時。
 それは……俺にとって狩りをする時とも言えるべき、絶好の時間だった……!!

 ダム工事現場監督……おやっさんと仲を持ち、大石さんを一度だけではあるがねじ伏せ、県のお偉いがたをねじ伏せ、ついには建設大臣に直接俺の思いを叩き込んでやった!!!
 
 その結果、雛見沢はようやくダムの脅威を逃れる事が出来たのだ。

 それは、前原圭一という……「俺」にとって、最も誇れる……自慢話であり、……同時に……。
 ……それは、今……この瞬間の俺にとって、最も必要な……「経験」を俺に与えてくれたのだ……!!!!


「……詩音、お前の母さんの名前、何て言うんだ?」
 ……だから。
 全面対決の前に。
「え……? は、はい。園崎茜です」
「……そうか」
 口先の魔術師をここまで追い詰めた人の名を、知っておこうと思ったのは自然の道理であるわけなのだ!!!

「園崎……茜さんって言うんだってなぁ!? ……まったく、驚いたぜ。この『口先の魔術師』である俺に一杯食わせるとはよ!!!」
「……」
 茜さんは、俺の言葉など耳に入っていないとでも言いたげな表情。
 だが、俺は言葉を発する事をやめない。

「だが……言ったはずだぜ!? 後悔するのは勝手だが……選択を間違えないようにしろってな!!!」

 それから俺は、両手を広げて立っていた沙都子のもとへ歩み寄り、頭にポン、と手を置いた。
 そして、頭を撫でてやる。……お前の勇気、確かに受け取ったぜ、沙都子。

「……後は俺にまかせろ」
「……圭……一さん……」
 
 ポンポンとさらに二度頭を叩いた後、俺はさらに歩みを進めて……茜さんの前まで歩み出た。
 
「……悪いが、まだ出て行くわけにはいかなくなっちまった」
「言っている意味が分からないね。さっさと詩音以外を連れて出て行けばいいだけの話だろう?」
「それが出来ねぇからこうして皆来たわけでな。……俺がこいつらの意思の代表である以上、死んでもあんたに引けをとるわけにはいかないのをようやく思い出したもんでね」
「それが一体何の関係があるって言うんだい? あんたの立場がどうであろうと関係ない。それも結局はわがままじゃないのかい」
「違うな。俺が勝手に喚くだけならそりゃわがままって言うんだろうけどな。……今言ったはずだ。俺は皆の意思の代表であるってな」
「一緒だよ。それが『個人のわがまま』から『集団のわがまま』になっただけさね。それが私達園崎の者にとって迷惑であるかぎりわがままでしかないんだよ」

 ……ち、やはり……そう簡単に崩せるわけがねぇか……。
 俺が言葉を発すれば、まるで最初から用意されていたかのように間髪入れずに反撃がくる。
 やりにくいことこの上ない。……ある意味、敵に回した時の大石さんよりもたちが悪かった。
 
 ……だが、俺も目が覚めた。
 立ち止まるわけには行かない。……それが、今回は口先になっただけの話だ。
 この勝負は……口を閉じた方が負けなのだ……!!!

「茜さん……だったよな。あんたはそう言うが、果たしてそうだと言い切れるのか?」
「……どういう意味だい」
「園崎の者の中にも、少なからず俺達の行為が迷惑ではないという者が居るって事さ!」
 
 ……ここで、茜さんは口を止めた。
 ……二の句は、勿論あっただろう。……だが、いえなかったのだ。

 茜さんの話術の才能には、正直俺も恐れ入った。
 ……はっきり言う。俺は、この特殊な環境下でなければこの人には絶対に負かされていた。
 ダム戦争の経験を思い出したとはいえ、総合的な経験地は圧倒的に相手の方が上なのだ。そもそもの理由がそこだ。
 俺が言ってくる事に、予め解答を用意していたなんて事は、絶対に無い。
 それこそ、超能力でも使わなければ無理だろう。……無論、茜さんがそうであるはずもない。
 ならば、どうして俺の言葉にすぐに対応できたのか?
 ……それこそが、経験の差なのだ。

 相手が言った言葉に対して、何を言うのがベストなのか。……彼女は、それを直感的に知ることが出来るのだろう。

 茜さんも、このお魎婆さん指導のもと、次期頭首として修行をしていた頃があったに違いない。
 しかも、その時はまだお魎婆さんも婆さんと呼ぶにはちと早い年齢だった事だろう。
 今みたいに布団の中で寝たきりが多いような状態ではなく、現役バリバリでビシビシ指導をしていたに違いないのだ。

 ……それに、彼女はまだまだ若い。頭の回転も衰えてはいないだろう。
 そして……ヤクザの夫を持ってるんだからこれまた驚きだ。
 この人はどこまでアビリティを増やせば気が済むのだろうかと冷や汗をかくぜ。 
 
 ……まぁ、そんなこんなで究極とも言うべき業を若くして身につけているわけだが。
 ……それでも、自分の娘が拷問に遭う事を願うなど……本気で思うはずがないのだ。

 ……だからこそ、はっきりと言えなかったのだ。

 『……そんな者は居ない』……ってな……。
 
 それは、紛れも無い事実だった。
 前方に座ってる年寄りご頭首様はどう思ってるのか知らねぇが、少なくとも……葛西さんと、魅音。……そして、茜さんは……そうは思っていないはずなのだ。
 葛西さんからは、直接話を聞いた。……詩音をよろしく頼むとまで言われたのだ。
 魅音も、四年前……詩音が拉致られて帰って来た時の詩音に対する反応を見れば一目瞭然。妹思いのいいお姉さんだな、と俺はあの時本気で思った。
 ……それに、茜さん。

 実の母親であり、こうして……俺の前に立ちはだかったが。
 それはあくまで、「園崎」であるからのためで。

 やはり、この人は仮面を被って自分の意思を無理矢理押しとどめていたのだ。


 ……その証拠に、彼女は俺の言葉に対して……反撃を見せなくなかったのだからな……!!


 ……だって。
 それを言ってしまうという事は。
 興宮にやってきた詩音を庇ってくれた親族を否定する事であって。
 魅音を否定し、……自分自身をも、否定する事なのだ。

 もし、茜さんが詩音とは何の縁も無い人であったのなら、ためらいなく「そんな者は居ない」と言ってのけただろう。
 だが、茜さんだからこそ。……その言葉を口にする事が、どれほど重い事なのかを……瞬間的に察知したのだ。
 ……これこそが。
 ……俺に与えられた、唯一の……仮面を、引き剥がす方法だった。
 園崎の人間だからではなく。
 ……園崎茜としての、……その名前を持つ「個人」としての、純粋な意見。
 ……心の奥に押しとどめられたそれを、掘り起こす事。

 それが、俺に与えられた……たった一つの勝機だった。

 
 ……それから、茜さんは完全に口を閉じて俯いてしまい、地下の一室は……再び沈黙が訪れた。

 ……最終防衛線は……突破した。
 俺は茜さんの横を通り、お魎婆さんのもとへと……歩み寄った。

「……」

 婆さんは、何も言わなかった。
 ただただ、俺をじっと見つめ……時々まばたきをするだけだ。
 俺は彼女の前へと来てから……両手をそろえる。

 ……そして、膝を曲げ、地面に頭をつけて……言った。

「悟史と、詩音を……認めてやってください」

 俺はそれだけを伝えて、後は……額を地面につけたまま、だんまりを決め込んだ。
 これ以上は、何も言わない方がいい。余計な事を言えば、この婆さんの怒りに触れる。……そうなれば、ゲームオーバーだ。

 それを避けるには……婆さんが、自ら口を開くのを待つしかないのだ。
 俺の意思で開かせたのではなく。……彼女が自らの意思で、開かなければ、誰も納得しないのだ。

 だからこそ。
 ……俺は、その時を……じっと待った。


「……魅音……」
 婆さんの声が、広い地下に響く。
 皆が皆だんまりなので、大きな声ではなかったが……反響音が重なり、それは部屋全域へと広がっていった。

 それから、魅音が歩いてくる足音が聞こえてきた。
 ……頭を下げているから、何が起こっているのか……状況が飲み込めない。

 ……そして、しばらく時間が流れて……。
「……えっ……?」
 魅音の……素っ頓狂な声が聞こえてきた。

「婆っちゃ、……それ……本当なの……?」
「何べんも言わせんね。……今日は疲れたけん、本家に戻ってもう寝る」
「……」

 ……え……?
 結局……どう……なったんだ……?

 俺が……それを気にしながらも、そのままの体制を維持していると、
「……圭ちゃん、もういいよ」
 魅音がそう言った。
 ……それを聞いて、俺は額を上げた。

「圭ちゃん、本当に……ありがとう……」 

 ……そこには……涙を流している、魅音が居て……。

「婆っちゃは……もう、何も言わないって。詩音に関しても、北条家に関しても……!!」
「それ……じゃあ……!!」
「……うん。悟史と詩音の交際……認めるって意味だよ……!!」

「――っ!!」




 魅音の……小さな声は、反響して……悟史と詩音にも届いたようだった。
 そして、沙都子と……古手さんにも。

 詩音は溢れてくる涙が止められないらしく、悟史の胸の中で声を必死に押し殺して泣いていた。
 沙都子も、詩音と同じように涙を流しながら、笑顔でそれを祝福している。
 古手さんも……沙都子に負けない笑顔だ。

 ……それから。
 パチパチと、音がして。

 それは……一斉に地下室全体へと……広がっていった……!!

 何事かと思い、あたりを見回すと……何と、ついさっきまで冷徹な表情で場を見守っていた園崎のお偉いさん方が、皆……笑顔になって、二人に祝福の拍手を与えていたのだ。
 それは……俺の予想をいい意味で裏切った。……完全に予想外だった。
 でも、時が経つにつれて……俺もたまらず、それに混ざって拍手をした。……手が真っ赤になって、痛くなるくらいに……思いっきり手と手を打ち合わせ、詩音と悟史を……祝福してやった。
 魅音も俺に習うように拍手を始め、沙都子も、古手さんも、茜さんも……皆、皆が拍手をした。

 ……ここまで、極限状態にまで追い込まれても……何とか頑張った、北条悟史に。
 その悟史を、自分の身を削ってでも救い出そうと必死になって頑張った、園崎詩音に。

 皆は、笑顔と祝福を……与えたのだ……!!!


「……詩音。手紙……読んだよ」
「……っく、ひっく……。……て……がみ……?」
「うん。……僕も、」

 拍手があまりに盛大だったので、遠くに居た俺には二人が何を話しているのかが聞き取れなかった。

「詩音の事が、大好きだよ」

「……っふ……えぇぇえん……!! 悟史君……悟史君……!!!」

 ……だが、その後の二人の反応で……全てを察した。

 拍手はいっそう強くなる。
 悟史と、詩音がそうだったように。
 ここに居る日取ったtいは、皆……満面の笑みを浮かべていた。

 それを見て……俺は確信した。
 
 ……悟史と、詩音は……たくさんの人と……たくさんの拍手に囲まれて……「幸せへの道」を、今……ようやく、歩み始めたのだと……。




















「……圭一、本当に……ありがとう」
「礼言われるような事はしてねーよ。俺は俺の道を進んだだけだからな」
 それから、しばらくして。
 園崎家の広い庭を、俺と悟史は夜風にあたりながら歩いていた。

 詩音、魅音、古手さん、沙都子とは一旦別れた。
 もう疲れていたので皆で一緒に帰ろうと思っていたのだが、悟史に呼び出されて、俺と悟史はここに残ったのだ。
 何の用があるのかは知らないが、これまでよく頑張ってきたし、悟史のわがままの一つや二つぐらいなら聞いてやろうという気持ちで俺は今、ここを歩いていた。

「……実は、明後日……大きなぬいぐるみを買おうと思ってるんだ」
「……ぬいぐるみ……? ……あぁ、バイトした金で買おうとしてるあのぬいぐるみの事だな?」
「うん。……でも、自転車の荷台にくくりつけられるかが、サイズ的にどうしても不安なんだ。……だから、」
「くくりつけられなかった時のために一緒に来てくれ……ってか?」
「……うん。……あ、でも……できればでいいんだ。これ以上圭一に……迷惑かけるのも悪いと思うし……」
「OKだ。それくらいならお安い御用さ!」
「あ……ありがとう……」
「ただし、荷台にくくりつけられるようだったら自分で運べよな。俺が一緒に居てもどうしようもないだろうし、苦労したからこそ後の沙都子の笑顔は最高だと思うしな」
「うん。ありがとう、圭一」

 悟史はにっこりと笑った。
 ……ここで、俺はようやく、……これまでしてきた事が悟史の幸せにつながっていた事を実感した。
 二年前から、まったく変わっていない悟史の笑顔。


 悟史も、沙都子も、詩音も、笑った。笑顔を取り戻した。


 ……これで、よかったんだ。

 驚いた事に、昭和57年になって……まだ二日しか経っていない。
 俺には、……この二日間がとても長かったように感じた。
 ……たった二日の間に……随分と色々やらかしたものだ。

 それは、思い出すのには何の苦にもならない日数でしかない。
 それでも……、全てを思い出すのは少し難しいくらい、色々と詰め込まれた二日だったのだ。
 昭和57年にやって来て、すぐに綿流しを迎えて。
 第四の祟りを……俺は体験し、そして……最後には、こうして皆が笑っていられる未来へとたどり着いたのだ。

 結局、最初っから今の今までちっとも気の休まる暇などなかったな。……今夜は、よく眠れそうだ。

「にーにー!」
「圭一ー!」

 俺がふぅ、と一息吐いて歩みを始めると、遠くで沙都子が手を振っているのがみえた。……傍らには古手さんの姿もある。

「あれ? 二人とも先に帰ったんじゃないの?」
「にーにーはこんな夜道をレディー二人きりで歩かせるつもりでしたの?」
「ご、ごめん……」
 どうやら、俺達の話が終わるのを待っていたようだった。
 レディーかどうかはともかく、確かに少女二人で夜道を歩くのはあまり好ましい事ではないな。
 とりあえず、むぅ、と俯いて沙都子に頭を下げている悟史を救済するため、俺はわざとらしく辺りをキョロキョロと見回して、言う。
「おい沙都子、そのレディーってのは一体どこに居るんだよ!? 古手さん以外に該当者が見当たらないぞ!」
「ななな、こ……ここに居ますわーー!!!」
「嘘をつけ! どこにも見当たらんではないか!」
「むがーっ! 圭一さんのバカバカバカーーっ!!」
 沙都子がそう言った、刹那――。
 どこからともなく降ってきたタライに俺、ノックアウト。
 カァンと景気のいい音を立てながら、俺の頭にバウンドしたタライがカランカランと地面で円を描いている。
 
 ……き……利いたぁ……。
 ……お星様が見える……ぜ……。

 そのまま俺はドサリとぶっ倒れた。
 意識は……とりあえずある。……が、しかし……意識があれば痛みを感じるのでいっそ気絶させてほしかった。
 ……いや、沙都子の事だ……故意に気絶しないギリギリの高さから落下させたのかもしれないな……。

「さ、沙都子……駄目だよそんな事しちゃ……」
「にーにーは圭一さんを甘やかしすぎですわ!」
 俺は悟史に甘やかされた事は一度たりともないぞ。
 無論俺も悟史を甘やかした事なんてない。
「むぅ……」
「くっそ……、痛てて……。……お前、また一段と腕を上げやがったな……」
 俺は痛む頭を抑えながら、起き上がって沙都子を睨みつけてやった。
「圭一さんが悪いんですのよ!」
「悟史、聞いてくれよ。俺は事実を述べただk――ぐはっ!!?!」
 再び、タライが頭上から急降下してきた。そして、狙ったかのように先ほどと同じ所にジャストミート。
 ……その痛みたるや、ぐおおぉお……。
 ……まだ……仕掛けてあったのかよ……。

 俺がやりきれない痛みを地面へと拳に乗せてぶつけていると、古手さんがクスクスと笑った。

「そ……そんなに面白いか……?」
「えぇ……。もう最高に」
「そうかい……」
「梨花がそう言うならもう一発ほど落としてさしあげられましてよ?」
「みぃ☆ お願いしますのです」
「――ってちょぐふっ!!?」

 ガァン。

 ……そりゃもう、今までで一番いいんじゃないのかって言うくらいの……金属音が辺りに響いた。
 ……流石に、俺も……もう、目を開けていられなかったようで。

 ……俺の意識は、急激に沈黙へと走っていった……。



   
 
 *     *     *



 TIPSを入手しました

 ■ノートの3ページ目
 ■試合
 ■大石の協力
 ■沙都子の気持ち

 


 ■ノートの3ページ目■

 結局、今年の綿流しも……殺人事件は起きてしまったか。
 ……でも、私はむしろそちらの方がいいと思った。
 圭一にはナイショにしてるけど、実際問題、叔母はこの世に居ない方がいい。
 だからこそ、警察の配置を変えてもらったのだ。
 警察の配置を変えたのは、圭一に言った意味そのものもあるけど、悟史が叔母を殺害するまでの時間をかせぐ意味もあった。
 ……叔母がこの世に居る限り、沙都子と悟史に安らぎなどないのだ。
 ……これは……仕方のない事。

 ……。
 ……あぁ、ワインでも飲みたい気分だわ。


 ■試合■

「……お、雛見沢ファイターズと興宮タイタンズ、試合やるんだ」
 私が見たのは、スーパーの掲示スペースに張り出された広告だった。
 買い物に来たら、思わぬ収穫だ。
 試合は……げ、綿流しの翌日かぁ……。

 ……まぁいっか。悟史君の応援に行ってあげなきゃ。
 えーと、スポーツドリンクを買っていかなきゃね。

 私は、買い物袋を持ったまま、再びスーパーの中へ入って行った。

 ■大石の協力■

「……と、いうわけなのですが……協力してもらえるでしょうか?」
「……ん〜……まぁ……前原さんとは敵対するような時はこっちがサポートにまわる時だと伝えてありますし……いいでしょう。警察はあなたの言った通りに配備します」
「……ありがとう……ございますです」

「……あ〜、それと……もう一つ、北条悟史君を監視してくれ、というものですけど」
「……」
「それも承りました。明日は非番ですが、私は非番でもオヤシロさまの祟りについては調べまくってますから、関係ありませんよ。明後日以降は非番の日まで他の警官にまかせますが、大丈夫ですか?」
「みぃ、それで充分なのです。……大石、ありがとうございます」
「……いえいえ……」

 綿流しのお祭りの、一角。
 このような会話がなされていたことは、当人達しか知らない。



 ■沙都子の気持ち■

 私は、圭一に言われた通り……大石の車に乗って、沙都子の家へと向かっていた。
 ……空が……朱い。もう日が暮れているのだ。
 車の窓を開けると、ひぐらしの鳴き声が聞こえてきた。

「着きましたよ」
「ありがとうなのです、大石」
「いえいえ。……それじゃ、私はこれで」

 私は大石にお礼を言って車から降り、沙都子の家のインターホンを鳴らした。
 ピンポーン。

 ……すると、バタバタと走る音が聞こえてきて、扉が勢いよく開かれた。
「にーにー!?」
「みぃ」
「……あ……、ごめんなさい、梨花でしたのね。どうしたんですの? こんな時間に」
「……沙都子と、一緒に居たくなったのです」
「……? ま……まぁ、あがっていってくださいまし。今……ジュースを出しますわね」
 沙都子はそう言って、リビングへとパタパタと走っていった。
 ……沙都子、悟史の帰りを……待っているんだ。

 私は靴を脱いで家にあがり、沙都子を追いかけた。
 リビングでは既に沙都子は冷蔵庫を開いてジュースを取り出しており、私はそんな沙都子を見ながら床に座った。
 ……あの頃の、沙都子だ。
 私の大好きな沙都子。……いつも、笑ってくれる……悪戯好きな、北条沙都子だ。

「お待たせしましたわ」
「みー、ありがとうなのです」
 私は、沙都子が持ってきたジュースを受け取って、それを一口いただいた。
 沙都子もジュースをちびちびと飲んでいる。
 ……そして、コップから口を離した沙都子は……窓の外をずっと見つめていた。

「……どうしたのですか?」
 私は何か悩みでもあるのかと、心配になって声をかけた。
「……いえ……。にーにー……帰ってこないなぁ……って……」
「……」
 私は、沙都子から時計へと視線をずらした。
 ……七時三十二分。……確かに、普段の悟史ならとっくに帰宅している時刻だった。
 ……でも、悟史は今日……下手をすれば、明日まで帰ってこないだろう。
 圭一が傍に居るから大丈夫だとは思うけど、やっぱり私も心配だった。
「……梨花は……にーにーがどこに居るか知っていませんこと……?」
「……みぃ? どうしてそう思うのですか?」
「ほら……梨花って、昔から予言めいた事をよく言ってくれたじゃありませんか。……にーにーの居場所……知ってるかなぁ……なんて……」
 沙都子は、物寂しげに……私に言った後、再び窓の外へと視線を動かした。
 ……待っているのだ。……悟史を。
 ……私は……唐突に思った。
 待っているだけじゃ……やっぱり駄目だ。
 私がそうだったじゃないか。……いつも、圭一が持ってくる「結果」を待っているだけだった。
 でも……それじゃ駄目だって……去年私は学んだじゃないか……!!
 私は……何をしているんだ……!!
「……沙都子……! 悟史の居場所……知っていますよ……!」
「本当ですの!!?」
 私は黙って頷いた。

「……園崎家の、地下拷問室なのです」
「……拷問……!!? にーにーが!!?」
「いいえ。拷問を受けているのは詩音です。……彼女を助けるために、悟史は圭一と共にそこへと向かいました」

「……梨花。案内してくださいまし……!!」
「……怖くは……無いのですか……?」
「にーにーとねーねーのピンチですもの……!! 今度は……私が助ける番……!!!」

 ……沙都子の目に、迷いは……無かった。

「分かったのです。……ちゃんとついてくるのですよ……!」

 私と沙都子は、鍵も閉めずに……北条家を飛び出して行った。




 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


        戻る