最終話【幸せを目指して】




 *     *     *



「はぁー……。疲れた……」
 ……夜。バイトから帰って来た私は、クタクタになった身体を休めようと、真っ先にベッドの上に転がり込んだ。
 ……葛西には大丈夫だって言ったけど……正直、物凄くキツかった。
 足もパンパンに膨れ上がってるし、手も動きたくないと悲鳴をあげていた。
 頭は勿論ズキズキしている。

 ……はぁー、最悪だよ……。

 それは私にとってこの上なく不快なコンディションだった。
 これをさっさと治すのなら早く寝てしまった方がいいだろう……。

 私はすぐお風呂に向かい、シャワーを浴びるだけですぐに出た。
 本当は一秒でも早く寝てしまいたいけど、汗をかいたままで寝るのだけは嫌だった。
 だから、シャワーだけで身体と髪の毛を洗って、後はすぐにお風呂場から退散。
 洗面所で歯を磨いた後、私はすぐに布団の中に潜り込んだ。

 ……あー、癒されるぅ……。


 私の体の疲れは、すぐに睡魔を呼び寄せたようだ。

 ベッドに入るや否や、私はすぐに深い眠りに落ちていった……。







 ……プルルルルル

 ……プルルルルル


「……うぅーん……」

 ……何……? 私……まだ寝ていたいのに……。
 私は顔だけ布団から出して、時計を見た。
 ……窓の外から射し込む光と針の先を見る限り、午前七時二十三分。
 ……私にとっては、早い事この上なかった。

「もしもし、詩音ですけどー」

 少し苛苛していた私は、ぶっきらぼうに受話器を取って、不機嫌な声でそう言った。
「詩音さんですか?」
 電話の相手は葛西だった。
 ……もう、アンタだったら私が今の時間寝てる事くらい分かるでしょうに……。
 こんな朝早くから何だって言うんですか……。
「そうですけど、一体どうしたんです? 私は今とてもねむ――」
「いいですか詩音さん。落ち着いて聞いてください」
 葛西の声があまりに真剣だったので、私は態度を改めた。
「……何? どうしたって言うんですか?」

「北条悟史君が……失踪しました」





「――え」





 ……え……っと……?
 ……今……、葛西は何て言った?
 悟史……君が……失踪……?


「……は……? な、何タチの悪い冗談言ってるんですか。悟史君が失踪するなんてそんな事――」
「本当なんです。先日、興宮の玩具屋で多数の目撃情報がありました。……あの、前原圭一君も一緒に居たようですね。……そして、しばらく店内に居たようですが、その玩具屋以降の事がはっきりとしないのです」
「な、何ソレ……。だって、おかしいじゃない。玩具屋って、あの玩具屋でしょ!? あの、大きなぬいぐるみのあった!!」
 そうだよ、悟史君はあの大きなぬいぐるみを買う為に身を削ってまで働いて……お金を稼いでいた……!
 それに、私と一緒に予約までしている。悟史君はあのぬいぐるみを買いにあの玩具屋まで行っているはずだ。
 その証拠に、葛西は今多数の目撃情報があったと言った。……圭ちゃんも傍でそれを見てた!
 なら間違いない、悟史君はぬいぐるみを手に入れている……!!
 手に入れているはずだ……!!
「……このタイミングで彼が居なくなるのはあまりにも不自然です。それが気がかりで、現頭首の指示のもと園崎は全面的に彼を捜索しています。……ですが、一晩経っても見つからないのです。……無論、北条家の沙都子さんの方にも連絡は入れましたが、所在が分からないそうです」
「……そ……そんなわけない……!! だってだって! 玩具屋で悟史君が目撃されてるなら、絶対ぬいぐるみを買っていったはずだもん!! それなら、まずそれを沙都子の元に届ける事を最優先するはずでしょ……!!? なのに……どうしてっ!!?」
 私がそう叫ぶと、葛西はくぐもったように少し黙り、……それから、静かに電話の向こうで口を開いた。

「……それが……、ぬいぐるみは……あったと」
「……へ……?」

「沙都子さんが、悟史君の帰りが遅いので探しに行こうと外に出ると……そこに、置いてあったそうです。大きな……ぬいぐるみが」

 葛西の言葉は……にわかには信じられなかった。
 
 ……え……?
 それって……どういう……意味……?

 ……目撃情報から改めて考えても、悟史君は間違いなくぬいぐるみを買って行ったはず……。
 そして、それは……北条家の玄関に置かれたぬいぐるみで決定づけられた。もう、間違いない。
 でも、なら……何で沙都子に直接渡してあげないの?(・・・・・・・・・・・)
 そんな、玄関にぶっきらぼうに置いてどこかへ行っちゃうより……直接手渡してあげた方が……沙都子、喜ぶに決まってるじゃない。
 なのに……どうして……?

 ……え……?

「な……何ですかそれ……?」
「……残念ながら、それ以上は分かりません」
「……」

 それって……何なの……?


 悟史君は、昨日……ぬいぐるみを、苦労して溜めたお金で……買って……。
 それから、雛見沢にある自宅まで戻って……。
 そこまでは、いいんだ。
 そこまでは……いいのに……。

 ……どうして……玄関先にぬいぐるみを置いて……立ち去る必要があったの……?


 ……な……何それ……?
 何ソレ、何ソレ、何ソレ何ソレ何ソレ何ソレ何ソレッ!!!?

 そんな、そんな、そんな……!!
 悟史君と……ようやく……幸せになれるって……思ってたのに……!!
 私……あの夜から、まだ……悟史君と一度も会ってないんだよ……?
 ……そんのって……無いよ……!!!

 ……私は、怒りと悲しみに声を震わせながら葛西に言葉を続けた。
「ど……どういう事ですか……? だ、だって……悟史君私の事……好きだって……言ってくれたんだよ……? 沙都子だって……あんなに元気になって……ど、どうして……どうして彼が失踪する必要があるのよっ……!!?」
「……ですから、先ほど申し上げたように……タイミングがあまりに不自然です。詩音さんの言う通り、あなたという恋人が出来、大切にしている妹は今や元のように笑うようになった。そうです、悟史君には失踪する理由がありません」

「だったらどうして居なくなるのよ!!!?」

「……詩音さん……」
 
 私の息はすっかり荒くなっていた。
 悟史君が……あまりにも、唐突に……消えてしまった。

 ……それが……とても、悲しくて……悔しくて……。
 
 ……確かに、私は他の皆に……助けられてばかりだったよ……?
 義郎おじさんに助けてもらって……魅音に助けてもらって……。
 沙都子に助けてもらって……梨花ちゃまに助けてもらって……。
 圭ちゃんに助けてもらって……悟史君に助けてもらって……。
 ……葛西には……世話になりっぱなしだった。

 ……でも、それはいけない事だったの……?
 幸せを掴む為に努力するのに……他人の力を借りるのは……いけない事だったの……?

 ……あ、ははは。
 あはははははは!!!!

 ……何を……私は言っているんだ。
 幸せを掴む為に努力するのに他人の力を借りる? ……何さ、それ。
 それは私の勝手な解釈であって。
 私は……私自身の幸せの為に……皆を利用しているんだ。

 葛西だって言ってたし、私はあの母さんの娘なんだよ?
 言葉を巧みに使って……利用していただけなんだ。

 は、はははは。

 そうだよ。
 それ以外に……何だって言うのさ……?
 
 ……他人を自分の為に利用するのは……明らかに罪であり……、当たり前のように……私は努力不足だったのだ。
 努力をするというのは悪い事をする事じゃない。
 ……つまり、私は……初めから……幸せになる権利なんか……。

 ――無かったんだ……。

「あっはっはっはっはっはっは!!!」
「――詩音さん……!?」

 ガチャン!!!! 

 ……私は、受話器を乱暴に置いた。
 それから十秒も経たないうちに、再びコールがかかる。
 私はコールに出ずにフラフラと移動し、クローゼットから私服を取り出して寝巻きからそちらに着替えた。

 ……もう、誰にも頼ったら駄目なんだ。
 ……いや。利用したら(・・・・・)駄目なんだ。
 私は悪い事をしました。
 自分の幸せの為に他人を利用するという……大失態を犯し、たった今までそれにすら気づきませんでした。
 ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
 ……謝って許される問題じゃない? ……はは、そうですね。それなら警察なんていらないよ。
 
 ……ここからは……私がやるしかない。

 私だけの……たった一人の……戦い。
 
 誰かに頼るな。
 他人を利用して手に入れた幸せなんてすぐに崩壊してしまうんだ。
 それ(・・)を、私はたった今経験したじゃないか。
 私一人でやらなきゃ意味が無いのだ。
 そうじゃなきゃ……また、掌をすり抜けて……落ちてゆくだけなのだ……。

 ……私は黙々と服を着替え、出発の準備をした。
 
 ……これから、どうしようか。
 誰にも頼らないという事は、情報収集から場所の移動まで自分ひとりでやらなければならないという事。
 ……そうだな、まずは……あの玩具屋に行ってみよう。

 私はまず情報を入手しようと思い、靴を履いてから、鍵を開けようとドアに手を近づける……。

「詩音!!! おい、詩音!!!!」
 ――その時。
 ドンドンとドアを叩く音と共に……、圭ちゃんの……声が、私の室内に響いた。
「詩ぃ! 居るなら返事をしてください!!」
 さらに、梨花ちゃまの声まで聞こえてきた。
 ……それが、嬉しかったのか、どうだったのかは……私には分からない。 
 私の頬には、目から零れ落ちた熱い……何かが、つーっと……伝っていく……。

「圭ちゃんに梨花ちゃまですか。一体何をしに来たんです!!!?」

 私は腕でそれを拭って、乱暴にそう放った。
 ドアの向こうで……圭ちゃんと梨花ちゃまが顔を見合わせているところが目に浮かんだ。 

「よ……よかった、まだここに居たんだな詩音!」
「そこに居られると邪魔なんでさっさとどいてもらえますか? 私は外に出たいので」
「……あ、ああ」
 ドアについている覗き窓から外を見ると、そこにはその声の主が二人居た。
 私が言った通り、ドアの前を避けてくれたので私はガチャリと鍵を開け、それを開いて外へと出た。
 それからさっさと鍵を閉めなおし、二人を無視して階下へと向かおうとする。
「ちょ……待てよ詩音!!」
 そんな私を、圭ちゃんが肩に手を置いて力を込め、制止させた。
「さっきも言いましたが、何の用です?」
「な……何を言ってるんだ! お前、今何が起こってるのか知ってるんだろ!?」
 圭ちゃんが声を荒げて私にぶつけた。
 私はそんな彼を冷ややかな目でにらみつけ、少し経った後にふいっと振り返り、腕を振り払ってから歩き出す。
「待てったら!!」
「五月蝿いなっ!!!!」
 それでも圭ちゃんは同じ事をしてきたので、私はさらにイライラして、圭ちゃんの腕をはたいた後に大声で叫んだ。
「……詩ぃ」
 梨花ちゃまがボソリとそう言ったが、私は無視して続ける。
「さっき何が起こってるのか知ってるのかっていいましたよね? 知ってますよ」
「なら」
「いいです。あなた達の手は借りません」
 私はそれだけ言って、またきびすを返してマンションについているエレベーターを目指す。
 ……だが、圭ちゃんはまだ納得していないようだった。

「詩音、待てって――」
「しつこいですよ!!!!」
 だから、私は。
 ……私は、そう言ってから……圭ちゃんの頬を思いっきりひっぱたいた。

「な……何するんだよ!!!?」
 私の理不尽な攻撃に、圭ちゃんは怒りを隠せないようだ。
 だが、怒りを隠せていないのはこちらも同じだった。
 ……辺は一速即発の空気が漂い、非常に嫌な感じだった。

 ……私は、もう構ってほしくなかった。
 今まで、私を助けてくれたあなた達に……これ以上迷惑をかけるわけにはいかないから。
 もう、私一人でやらなきゃ意味がない。……それを、どうにかして二人自身に気づいてほしかった。
 ……だから、私は……。

 ……口を、開いた。

「何をするんだ、ですって? そりゃこっちの台詞ですよ!!!」
「……ど……どういう意味だよ!?」
「聞きましたよ? 圭ちゃん、あんた昨日悟史君がぬいぐるみを買いに行った時……傍に居たそうじゃないですか!!!」
「――な……」
 私の言葉に、圭ちゃんはどうしてその事を知っているんだ、とでも言いたげな表情になった。
 ……母さんから受け継いだ話術の勘ってやつが、私に一気に畳み掛けろと言ってくる。
「失望しましたよ!! アンタが傍に居ながら、悟史君は理由も残さずに失踪してしまった!! アンタが傍に居たにも関わらず!!!(・・・・・・・・・・・・・・・・・) まったく、とんでもない事をしてくれたもんです!!!」
 圭ちゃんの表情は段々と弱弱しくなってゆく。
 ……私は、興奮気味に……言葉を続ける。
「……圭ちゃん、約束してくれたじゃないですか。私と悟史君を幸せにしてくれるって。あれは嘘だったんですね?」
「ち……違う……!! 俺は……」
「嘘だったじゃないですか!!!!!」
 私はより一層声を荒げた。
「祟りを食い止める、沙都子を笑顔にする、私たちを幸せにする? あっはっはっは!! 笑えます、実に笑えます。結局アンタは何もしてないじゃないですか!!? 嘘。みーんな嘘!! 自分のやれる事とやれない事も区別がつかないような男が勝手に言った戯言って事になるんですよね!!? そうなんですよね!!!!!」
 そして、一方的に喋り続けた。
 圭ちゃんは何も言わない。
「私はそんな人と一緒に何かをする気にもなりません!!! いいですか? アンタなんてもう仲間じゃありません。私についてこないで!!!」
「……し……詩音……」
「ついて来るなって言ってるでしょ!!!!??」
「……――っ……!」

 私がそう言うと、圭ちゃんは……もう何をするというでもなく、ただただ俯いて……何かをボソボソ言っていた。

 私には付き合っている時間すら惜しかったので、無視して振り返り、再びエレベーターへと向かった。
 そして、やってきたエレベーターに乗ってボタンを押す為に振り返った時……遠くで圭ちゃんが、まだ何かを言っていたのが目に入った。
 ……何だ? ……何て言っているの?

「……お、え、ん、あ、あ、い」
 私は圭ちゃんの口の動きを見て、実際にこちらでも口に出してみた。 

 ……おえんああい。
 ……。





 ……ごめんなさい……。 






 私はハッとして、顔を上げた。

 エレベーターは既に一階のエントランスへと向かっており、圭ちゃんの姿は……もう見えなかった。





 
 ……それから、私は色々と歩き回って情報を収集していった。
 ……ただ、どうも心が晴れなかった。……おかげで、集中できず、結局ロクな収集も出来ず、肩を落とした。
 日が暮れて、空が闇に包まれて。
 私が帰宅してからしばらくすると、電話がかかってきた。
 ……相手は、葛西。

「詩音さん。……また……大変な事が起こったようです」
「葛西? ……今度は何だって言うんですか」


「……前原圭一さんが、自殺をはかったそうです」

 ……その言葉に、私は……絶望へと追いやられた。



 *     *     *



「――圭ちゃん……っ!!!」
 葛西から電話があって、私はすぐに入江診療所へと向かった。
 走って、走って……とにかく……ひたすらに走って。
 途中で葛西に拾われて、車での移動になって。
 ……私は、入江診療所にたどり着いて……。

 ……そこで見たのは、首を包帯でぐるぐる巻きにされた……圭ちゃんの姿だった。

 圭ちゃんの病室には、魅音にレナ、沙都子……。
 ……それから、梨花ちゃまがそこに居た。
「……詩ぃ。ちょっとナイショ話があるのでこっちに来てくださいです」
「……」
 私は、従う他無かった。

 そうして連れてこられたのは、何故か診療所のロビーだった。
 そして、梨花ちゃまは何故かロビーにあったイスの上に立った。
 私はわけがわからずに彼女に手招きをされるがままに近づく。
 ……すると……。

 ――パンッ!!!

 私の頬に、痛みが走った。
 突然引っぱたかれた事に……私は怒りを感じ、平手打ちを放った梨花ちゃまをにらみつけようと顔を上げる。
「――……!!」
 ……だけど、そこに居たのは……涙をボロボロと流しながら、私をにらみつける……古手梨花の姿だった。

「……とんでも……無い……っ、……事を……して……くれたわね……」
「……」
 涙を流しているので、その声は嗚咽だらけだった。
 所々で声が途切れるので、それが話し言葉に聞こえるかすら疑問だった。
 ……でも、私には……耳を逸らす権利なんて……無いのだ。

「……貴方に……まず言っておくわ……。……今朝……私たちが貴方のもとに訪れた時……圭一は既に悟史がどこに居るのかを把握していたのよ!!!!」
「――え」
「貴方が何をどう思ってあんな行動に出たのか知らないけどね。圭一は……」
 私の頭の中が……真っ白になってゆく。
 ……圭ちゃんは、悟史君が……どこに居るのかを知っていた……?
 園崎が……いくら探しても見つからなかった……その、居場所を……彼は知っていたの……?
 ……じゃ、じゃあ……私のした事は……。

「圭一は……貴方と悟史の幸せを……あの時だってあきらめてなかったのよ!!!!」

 ……そうだよ。
 圭ちゃん、言ってたじゃないか。
 祟りを防ぐ。沙都子と悟史君を笑顔にする。
 ……一つめは出来ず、二つ目は、完全に自分一人の力じゃ達成できなかったから。
 ……せめて、三つ目だけは。

 ……そう……言ってたじゃないか……!!!

 私は……せっかく、圭ちゃんが作ってくれた道を……自ら閉ざしたばかりか、彼の……命まで……!!!!

「……圭一にはね……彼には……過ぎ去った祟りの事を言うのは一番いけない事なのよ……!!!」
 梨花ちゃまはさらに言葉を続けた。
 ……いや、責め続けた(・・・・・)
 ……あの時……私が圭ちゃんにしたように。

「彼が……目の前で人が次々と消えていくのを見ていて……どう思ったか貴方は知ってるの……? ……彼がその光景を目の当たりにした時……」
「……」

「どれほど悔しかったか……貴方は知っているっていうの!!!?」

 ……知らない。
 私には……想像もつかないよ……!!!

 目の前で……人が、亡くなってゆく。
 
 私が以前考えた事は、当たっていた。
 梨花ちゃまの話を聞けば……それは明白な事だったのだ。

 ダム工事現場監督が消された時……彼は、目の前で……現場監督がメタメタにされていくのを見たはずなのだ。
 北条夫妻ががけ下に転落した時……彼は、目の前で……それ(・・)が起こるのを許してしまったのだ。
 古手家夫妻が消された時……彼は、それをいち早く察知して……戦ったのだ。
 ……それでも……結局、防ぐ事が出来なかった……。

 ……そして……今年。

 悟史君が、殺人犯になってしまわないように……彼は、手を尽くしてくれたのだ。


 ……それでも……駄目だった……。




 ……何度も何度も挑戦して。
 ……何度も何度も戦って。

 ……何度も……何度も、絶望へと突き落とされて……。


 ……彼が……どれほど……悲しかった事か……。
 ……彼が……どれほど……、

「詩音……!! 貴方には……それが分かるとでも言うの!!?」

 ……悔しかった事か……!!!
 
 私には……今頃になって、ようやく後悔の念が押し寄せてきた。
 さきほど梨花ちゃまに引っぱたかれた頬は……ジンジンとしてきて、どうやら腫れているようだった。

 ……彼女は……それほどに怒っているのだ。

 圭ちゃんをここまで追い詰めた、こいつが許せない。殺してやろうかってくらいに……怒っているのだ……。
 おそらく、思いっきり引っぱたいたに違いない。
 何て事をしてくれたんだ。
 どうやってこの責任を取ってくれるんだ。
 自分が何をしたのか分かっているのか。

 ……心の中で、何度も何度も私に罵声文句を浴びせているに違いないのだ。
 
 私はあの時、感情のままに圭ちゃんにそれをぶつけた。
 ……それを、同じ状況にありながら……心の中に押しとどめる事の出来る彼女が……羨ましかった。


「……詩ぃ。こっちに来るのです。……今度こそ……ナイショの話なのですよ……」
 息が荒くなっていた梨花ちゃまが出したその声は、怒りに満ちていた。
「……ごめんなさい……」
 私は……自分でも呆れるくらいの声で……そう言った。
 だけど、梨花ちゃまは……聞こえてないのか、それとも無視をしているだけなのか。

 ……何も言わずに、ただただ……こちらへ来いと促すばかりだった。

 ……地下祭具殿へと私を導こうとする……あの時の魅音のように。
 彼女は、自分がしなければいけない仕事を、まっとうしていた。

 そうして私が通されたのは、監督の診察室。
 想像通り、そこには監督が座っていた。

 私たちに気づいた監督は、カルテを一旦机において、私の方へと向き直した。
「どうぞ、腰をかけてください」
 私はお言葉に甘えて傍にあった丸イスに腰をかけ、監督をじっと見つめた。
 私の背後には梨花ちゃまが立っており、ドアに体重をかける形でそこに居た。
 ……私を逃がすまいとしているのが、よく分かった。

 ……それは……あの時の地下祭具殿よりも……私にとっては辛かった。
 誰も助けに来てくれないというのも、勿論ある。

 ……だけど、ここは決して逃げ出せない。
 私のわがままで逃げるわけにはいかない場所なのだ。
 そういう意味では、あの時と何ら変わりは無いのだけれど。

 ……今回、私は……既に「大きな過ち」を犯してしまった後なのだから……。

「梨花さんから大体の事情はお聞きしました。……一体何があったんです。彼をそこまで追い詰めるに値する……何かがあったんでしょう?」
 私に……そう言う監督の表情はとても厳しかった。
 声は優しい。……そりゃ、私にビクビクされたままじゃロクな事なんて聞けないだろうし、医者である監督はそれをもう習慣みたいなものとして身につけているからだ。
 でも、監督は視線を私から逸らさない。
 何があったのかを言うまで、絶対に私を解放する気はなさそうだ。

 ……私は、今朝の自分を必死に思い出しながら、……冷ややかな目で背後から私を見る梨花ちゃまにも聞こえるように、全てを……洗いざらい吐いた……。

「……なるほど。つまり、悟史君が失踪してしまった事であなた自身はあの時混乱状態にあり、今のあなたはあの時の発言を後悔している――そういう事ですね?」
 監督が私に確認をしてきた。
 要約すればそんなところ。……でも、この確認は……私に、自分がした事を改めろと言っているのだと……直感的に私は察した。
「……確かに、貴方にも反省すべき点……悪いところはあったでしょう。……ですが、根本的な問題として……あなたは悪くありません」
 監督は優しくそう言った。
 ……でも、今の私にはどんな言葉もいらなかった。

 ……圭ちゃんが、無事なら……それでよかったのだ。

「あの……監督、圭ちゃんは……圭ちゃんは大丈夫なんですか……?」
「……」
 監督は立ち上がって窓際まで行き、深刻な顔をした。
「正直……危険な状態です。前原さんは包丁で首の頚動脈を傷つけようとし、梨花さんがそれを寸前のところで包丁の軌道をずらしました。……ですが、結果的に首を傷つけてしまいました」
「……」
 私は俯いてそれを聞くしかなかった。
 ……自分の、罪の結果。
 耳を逸らすわけにはいかない。この問題の責任は、全て私にあるのだから……。

「傷が浅かったのが幸いし、出血はひどかったですが一命は何とか取り留めました」

 それを聞いた瞬間……涙が溢れてきた。
 圭ちゃんは……まだ生きている。それが分かった時……私はどれほど救われた事か……。

「……詩ぃ」
 涙を流してイスから崩れ落ちていた私のもとへ、梨花ちゃまがやってきてしゃがみこんだ。
 また何かを言われるのかと思い、私は覚悟を決める。
「今なら……分かるのではないのですか?」
「……え……?」
 だけど、彼女から聞こえてきた言葉は……私の予想とは大きく違っていた。
 ……まるで、赤ちゃんに何かを教え込むように。
 その声は……とても優しかった。

「救えた命を、自分の努力や実力の無さのせいで失っていく。……そして、それを謝る事も出来ない。……今のあなたなら……そんな、圭一の気持ち……ちゃんと分かるのではないですか……?」

 ……私の目頭は……再び、一気に潤った。
 毎年起こる、オヤシロさまの祟り。自分はその異変に気づいていて、それを止める事が出来たかもしれないのに。
 自分がふがいないばかりに、救えた命は散ってゆく。

 ……私は、命というものが……こんなにも尊く、大切なものなのかと……今更になってようやく理解した。
 失った命は、もう取り戻される事は決して無い。
 人は、それを分かっているからこそ……命を大切に扱う。
 自分自身の命は勿論、……だからこそ……他人を大切にするのだ。
 そして、そこから生まれたのが……「仲間」という言葉なのではないのか。

 圭ちゃんがそうしたように。
 悟史君がそうしたように。
 
 仲間や大切な人の為に、自らの命も捨てる覚悟で戦う。
 彼らは……それほど、困難な道を生き、そして……進んできたのだ。
 
 それが……私ときたら何だ?
 すがりつくだけすがりついて、それを他人を利用したからもう止めるだなんて……今まで助けてくれた人に、失礼にも程がある。
 今まで助けてもらったのなら。……それを、返してあげる事……つまり、その人が困った時や助けてほしい時に……優しく、手を差し伸べてあげる事こそが……大切だったはずなのに……。

 ……私は……何て事を……!!!

「……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 ……気がついたら、私は謝罪文句を並べていた。
 ただ……ひたすらに、ごめんなさいと言い続ける。
 
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 
 涙は尚も溢れ、拭っても拭っても意味が無かった。
 拭ったそばからすぐにあふれ出してくる。涙を何度も何度も拭いながら……私は永遠とも思える時間を過ごした。
 何度も……何度も……謝るしかなかったのだ。
 私には……人の命なんて救えない。監督が……私のわがままの尻拭いをしてくれたのだ。
 ……それを言ったら、梨花ちゃまもか。
 彼女が居なかったら、圭ちゃんは確実に死に至り……私はどれほど後悔した事か……。

 ……きっと……私自身も命を絶ったかもしれない。 
 人一人を死に追いやったのだ。……そのくらいは……当然だと思った。

「詩ぃ」
 私の肩に手を乗せて、梨花ちゃまが再び口を開いた。

「ボク達では、詩ぃの罪を許してあげる事が出来ないのです」
「……」
「許す事が出来るのは、圭一だけなのですよ。……幸いにも、圭一はまだ生きている。……彼が死んでしまっていたら、貴方は謝る事すら許されなかったのです」
「……うっ……うぅ……」
「……繰り返す事にならなくて……よかったですね」
 梨花ちゃまはそう言って、……笑った。
 ……繰り……返す……?
 ……私が、こんな事を……繰り……返す……?

 ……その時、頭の中に……イメージが入り込んできた。
 私の知らない記憶が……まるで、体験してきたかのように……次々と入ってくる……。


 ……そうだ。
 私は……その世界で。

 梨花ちゃまを……公義のおじいちゃんを……鬼婆を……沙都子を……魅音を……。
 ……私は……この手で……殺めたのだ……。

 ……そして、あろう事か……私は、圭ちゃんまで手にかけた。
 彼がしてくれた事は……なんだった……?
 
 確かに……人形を魅音に渡してあげなかったのは、引き金になってしまったのかもしれない。

 だけど、彼は……「魅音」と「詩音」の為に……最後まで戦ってくれたじゃないか……!!
 両手両足を固定されて……今にも拷問をされてしまうというのに……彼が言った事は何だった……?

『魅音に身体を返してやれ』『詩音は殺すな』

 ……圭ちゃんは、いつもそうだった。
 自分の事なんかより、他人の事を思い、いつだって……自分の幸せよりも他人の幸せを優先して戦ってきたのだ。

 それを……私は……。
 ……私は……ッ……!!!!!

 ……なんて……事を……してしまったんだろう……。

 後悔したって仕切れない。
 あの時(・・・)の私は……それにすら気づけなかった。
 ……気づいた時には……もう、空中で……。

 結局、ごめんなさいの一言も……いえなかったんだ。



 自分が犯した罪に対して、謝罪をする事も出来ない。
 仮に……謝罪文句を並べても……謝罪すべき対象は、私がこの手で殺めた者達なのだ。
 謝っても……もう、届かない……。


 ……それが……どれほど悲しい……事か……ッ……!!!

 
「う……うぁあぁ……ッ……! ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 届かない。
 もう、届かないのだ。
 
 隣に居る沙都子は、あの時の沙都子じゃない。
 梨花ちゃまも、魅音も、おじいちゃんも、……お魎お婆ちゃんも。
 
 ……あの時の……彼女らじゃないのだ……!!

 謝っても、届くはずが無かった。
 でも、謝らずには居られなかった。
 
 ……その……時……。

 私の頭に……小さな手が置かれた。


「……詩ぃの罪を、許しましょう」
「……え……?」
 それは……とても、とても……優しい声だった。
 神秘的なくらいに、美しい声が、……私を包む……。
「ボクは、……はっきりと覚えています。貴方が……何をして、ボクをどんな目に遭わせたのかも。……全部、全部覚えています」
 それは……耳が痛い内容のはずだった。
 でも、私は……目の前に居る少女が言う言葉が……信じられなくて……。
 ……とても……救われた気持ちに……なって……。
「だからこそ……ボクは貴方を許す事が出来ます。どんなに痛くても……どんなにひどい目に遭わされたとしても。……ボクは貴方を憎んだ事はありません。その事を怒ってもいませんのです。……だから……、もう……涙を流す必要はないのですよ……?」
「う……うぅ……うあぁぁあん……!!」

 それから……涙は止まる事を知らなかった。
 どんどん……どんどん溢れてきて。
 今までよりも……ずっと、ずっと……溢れてきて……。

 やり場の無いこの気持ちに、梨花ちゃまから得る事の出来た許しが……私を、どれほど……救ってくれた事か……。


 罪を犯した者を許す事が出来るのは、被害を被った人間だけ。
 目の前に居る……この、古手梨花は……あの時の古手梨花だったのだ。
 
 それは、とてもじゃないけど、信じられないような話。
 ……でも、私は信じる事が出来た。

 記憶が、あったから。……私の……記憶を……取り戻したから……。

 ……圭ちゃんも……きっとそうだったんだ。
 どうして圭ちゃんはオヤシロさまの祟りと戦っているのか、ずっと疑問に思っていた。

 彼もまた……記憶を取り戻したのだろう。

 過去に自分が犯した罪の重さを、知ったからこそ。
 その罪を滅ぼすために……他人の幸せを望み、この……雛見沢を陥れる存在となっていたダム戦争を……終結へと導いた……。

 ……だけど、その記憶を何かの拍子に失ってしまった。 
 そのきっかけが何であったのかは私は知らないし、どうしてこんな事を思うのかは自分自身でも分からない。
 ……でも、何故か確信じみた感覚が、私にはあった。

 ……自分が、ようやく取り戻し、そして手に入れた「罪の形」と、「罪滅ぼしの形」。
 それを取り戻すために……一年一年、オヤシロさまの祟りと戦っている。
 
 そうか。

 圭ちゃんは、今まで他人の為だけに戦ってるのかとずっと思ってた。
 私に、手を差し伸べてくれたように。
 悟史君に……手を差し伸べたように。

 でも、それは間違っていた。
 圭ちゃんは、自分自身の為にも戦っていたのだ。
 私がそうだったように。

 ……いや。

 人間が、誰しもそうであったように。

 圭ちゃんも、自分の記憶を取り戻すために……ずっと戦っていたんだ。




 ……なら、私がすべき事は……その手伝いをしてげる事であって……。



 ……決して……彼の非を非難する事では……なかったのだ……!!!!


 
 
 それに、気づいた時。

 ……私の身体は、自然と動いていた。

 そして、それとほぼ同時に。
 ……魅音の、レナさんの、沙都子の。
 ……喜びに満ちた声が、隣の部屋から聞こえてきた。



「……圭ちゃん……!!」
 祈るような気持ちで、私は……圭ちゃんの病室の扉を開けた。
 ガラガラと乱暴に扉を開けて、私は……中の光景を見る。

「……! ……詩……音……」

 私は……奇跡でも起こったのかと思った。
 先ほど見た時……苦しそうな表情で……眠っていた、圭ちゃんが。
 目を……覚まして……そこに座っていたのだから……!!!

「ご……ごめんなさい……ごめんなさい……!! さっきはごめんね、私……あぁあぁ、あの……あの……ごめんなさい……!!!」
  
 そして……その姿が目に入った時……圭ちゃんに近づきながら、私の口は自然と動き、頭も地面を向いていた。
 
 圭ちゃんは……生きている。
 なら……する事は一つじゃないか。
 罪を背負ったまま生きるというのは、並大抵の事じゃない。
 私だって、さっきまでは……何とも失礼な事に、……その事を……忘れて……いたから、なんともなかった。

 ……でも、それを思い出した時、胸が抉り取られるように痛んだ。
 悲しくて……悔しくて、しょうがなかった。
 あのままだったら、泣き喚いて……本当に、ずっとずっと……届かない謝罪を、何度も何度も言っていた事だろう。


 ……でも。


 この(・・)世界でなら……届くのだ……!!



 監督に……梨花ちゃまに……助けられて……。
 私は、自分の犯した罪を……こうして、謝る事が……できるのだ……!!!

 それは……何事にも変え難い、とても大切な事。
 どれほど自分が欲しいものを目の前に出されても、私は謝罪を優先する。……そうしなければいけないのだから……!!!

「……もういいさ」

 下げていた頭に……再び、手が置かれる感覚がした。
   
「詩音が謝ったのなら、それでいい。俺は、お前を許すよ」
「――っう……うぅう……」
 再び、嗚咽が私の口から漏れてきた。
 ……圭ちゃんは、優しく頭を撫でてくれた。
 
 私の罪は……届かなくなる前に、許してもらえる事が……できたのだ……。

 ……でも、それを素直に受け取ってしまって……いいのだろうか……?
 私は、圭ちゃんを……自らの命を絶とうとするほどに追い詰めたのだ。
 そんな私が……簡単に受け取っても……良いのだろうか……?

「……で……でも……。私、圭ちゃんを……ひっく、こんなになるまで……追い詰めたんですよ……? それなのに……うぅ、許して……くれるんですか……?」
「何言ってるんだよ」
 圭ちゃんは掌を上下させて私の頭をポンポンと叩いた。

「お前の言葉を聴く限りじゃ、『謝って済むなら警察はいらない』って言ってるように聞こえるけどさ。でも、それじゃ何のために『ごめんなさい』って言葉は存在するんだよ?」
「……え……?」
「自分が犯してしまった罪を認めて、それを謝罪するために『ごめんなさい』ってのは存在するんだ。謝れば何でも済むって問題でも無いってのは、確かにそうだとは思うけど。……でも、『ごめんなさい』って言葉は、その人が述べる事が出来る、最大限の謝罪文句なんだ。他のどのどれよりも、この言葉が持つ意味は重い。だからこそ、自分の最大限の謝罪をしたいっていう気持ちを持って、この言葉を言うんだ」
「……」
 誰も、口をきかなかった。
 この場には……今、五人の人間が居たけれど。
 今、しゃべる事を許されているのは、圭ちゃんだけなのだ。

「俺には、お前の気持ち……ちゃんと届いたぜ。……だから、許すんだ」

 ……圭ちゃんがそう言った時、私の近くに……ポトリと、水滴が落ちてきた。
 私は……顔を上げた。

 ……すると……。



 ……皆……涙を、流していた。
 私と圭ちゃんを囲むようにして、……微笑み……ながら……。

「圭……ちゃん……。……うぅう、圭……ちゃぁぁん……!!!」
「お……おいおい、園崎詩音ともあろう奴が、わんわん泣くなよな」
 圭ちゃんはそう言い、尚も頭を撫でてくれた。

「これで仲直りだね」 
「よかったね……詩音」
「……本当に……」

「……詩ぃ」

 私がその声に気づいて、頭を上げて振り向くと……そこには、梨花ちゃまが開け放たれたドアから入ってきているところだった。

「ボク達と貴方は、これでも……仲間じゃないと言い張りますか?」
 梨花ちゃまは……微笑ながら私に問いかけた。
 ……私の答えは、もう……決まっていた。
「う……うぅん……。……私……今、嬉しくてしょうがないんですよ……。……あはは、涙……全然止まらなくて……情け無いったらありゃしないです」
「それでいいのですよ」
 梨花ちゃまは止めていた足を再び動かしてこちらへと来てから、圭ちゃんと同じように私の頭の上に掌をポン、と置いた。

「その涙は、きっとあなたを救ってくれるはずです。……だから、泣きなさい。今は、泣いてもいい時なのですから」

 そして、それだけ言ってにっこりと微笑んだ。
 私には、それが……嬉しくて。
 留まる事を知らない涙達は、病室の床を……いつまでも濡らしていた。




 *     *     *  
  

 ……俺……あの時はどうかしていたのかもしれない。
 詩音に……色々言われてから、頭の中は真っ白になった。

 詩音の言う通りだったのだ。
 
 俺は、結局まだ何も出来ていない。
 ただの大ホラ吹き野郎に……過ぎなかったのだから。

 ……でも、……だからって。
 俺は、どうしてあんな選択を取ったのだろう。
 自らの命を絶とうだなんて、今思えば馬鹿馬鹿しかった。
 俺が何のためにこの時代に居るのか……それすら忘れて、あの時の俺はひたすらに包丁を首につきたてる事しか考えていなかった気がする。

 ……俺は、勝手に舞台を離れる事なんてしてはいけないのだ。
 命を絶つという事は、舞台から降りるという事。
 それは、俺のわがままであり、そんな事は許される事ではない。

 ……だからこそ、今……ここにこうして俺が存在する事を、心から感謝した。
 
「監督」
 俺は詩音の頭を撫でながら、傍で見ていた監督へと言葉を投げた。
「何でしょうか?」
「話があります。……隣の部屋までいいですか?」
「……分かりました」
 それだけ言うと、監督はすぐに部屋を移動した。
 俺はそれを見届けてから、小声で言う。
「詩音、あと古手さんも。……一緒に来てくれ」
 俺がそう言うと、二人ともすぐにこの言葉の意味を理解したようで、コクリと頷いた。

「皆はちょっと待っててくれ。俺と……古手さんと詩音と監督で、話をしてくるから」

「……分かった」
「無理しないでね……?」
「……おとなしく待っている事にしますわ」

 茶化す雰囲気でないというのは他のメンバーもとうに分かっていたようで、皆理由は問わずに頷いたくれた。
 俺は彼女らに笑顔を向けた後、部屋を移動した。

  

 

「お話とは……一体何でしょうか?」
 監督は隣の部屋でイスに座って待っていた。
 俺は、監督の前まで歩いていき、近くにあったイスに腰を下ろして……言う。
「悟史の事です」
「……!」
 ……そう言った時、監督の表情が一瞬曇ったのを……俺は見逃さなかった。

「監督、正直に答えてください。……北条悟史は、今……入江診療所内に居ますね?」
「……え!?」
 俺の言葉にいち早く反応したのは、詩音だった。

「ど、どういう事ですか……、圭ちゃん……?」
「……話せば長くなるんだがな」

 

 ……それは、昨夜の事だった。
 大石さんから、突然古手家の方に連絡があったのだ。

 何でも、今日の昼頃、今年のオヤシロさまの祟りの実行犯が見つかった……と。
 俺は一瞬ヒヤヒヤしたが、すぐにそれは悟史ではない事が分かった。
 どうやら既に捕まっていた奴が自白したようなのだ。余罪、という事でそいつの取調べが行われ、結果的に今日の昼頃、逮捕に至ったそうだ。
 
 ……俺は、これに驚きを隠せなかった。
 ……だって、俺の目の前で……悟史は、叔母を殺害したのだから。
 ……いや、正確にはそうじゃないが、あの状況は……明らかにそれを示していた。

 大石さんの話によると、犯人は薬物に手を出していたらしく、俺はそいつの幻覚や妄言なんじゃないかと疑ったが、犯人でしか知りえない事を次々と言ったらしく、俺はとりあえず大石さんの言葉に頷いた。
 ……それから、悟史が失踪したらしい……というのを聞いたのだった。
 警察がついていたのではないのか、と思わず怒鳴ってしまったが、どうやら実行犯が捕まった事で悟史への警備も必要ないものとされ、強制的に無くなってしまったらしかった。
 

 ……俺は、考えてみた。
 
 あの現場の状況を知る奴が突然出てきて、それにタイミングを合わせたかのように悟史が消えた。
 ……しかも、玩具屋で俺と別れてすぐに。

 犯人は悟史でガチだ。それは絶対に動かない。
 それは、あの現場に居合わせた奴しか知らない情報を……何故別の人間が知っているのか、という疑問にたどり着く。

 ……悟史があの事をしゃべるはずが無いし、俺も話していない。
 悟史と別れたのは日が暮れ始めで、犯人がペラペラと口を割ったのが昼頃。
 悟史を捕まえて吐かせたにしては時間帯に矛盾が起きる。

 ……それは、あの現場に……他にも人が居たのだという事を、如実に示していた。

 そして、そんな事があるとするならば……。
 ……それを聞いた人物は、去年古手家夫妻を消した……山狗しか思い浮かばなかった。

 
 そして、古手さんから雛見沢症候群の事を鷹野さんや監督が研究しているという事を知っていたからこそ。

 ……悟史が、絶好の「実験体(サンプル)」になっているのではないのかという結論に……辿りついたのだ。
 そして、大石さんによれば、ぬいぐるみが北条家の玄関においてあったという。

 ……それはつまり、悟史があのぬいぐるみを直接(・・)手渡せなかったという事。
 ……北条家を認めたというのは、まだ園崎内部でしか知れ渡ってない。
 って事は、村人がわざわざそんな事をしないだろうし、悟史を連れ去ったのなら……おそらく、鷹野さんは監督を使ったはずなのだ。

 監督に車で悟史が雛見沢で帰るところを通らせ、「送っていきましょう」という言葉で悟史を誘い、バランスが上手くとれずフラフラ進んでいた悟史は渡りに船だと喜んだだろう。
 だが、乗り込んだ悟史に睡眠薬か何かをかがせたのだろう。……おそらく、一緒に乗り込んで隠れていた誰かが。
 この時睡眠薬をかがせたのは監督ではない。……監督はハンドルを握っていたし……何より、人体実験の実験体を手に入れる事になど……賛成できるはずがなかったのだ。
 だが、――これも古手さんから聞いた話だが――監督は地位的には一番上だが、実際に入江診療所を機能していく権限があるのは鷹野さんなのだという。
 ……おそらく、彼女の命令だったのだろう。

 ……そして、監督は理不尽な命令を遂行した。

 後に残ったのは、悟史の自転車と……ぬいぐるみ。
 ぬいぐるみを沙都子に渡すなとは言われてない。
 監督は……すぐに行動に移ったに違いなかった。



 ……俺の頭の中で、それらの光景が……生生しく浮かんだ。
 おそらく、睡眠薬をかがされた時……悟史は絶望しただろう。
 どうして、監督がこんな事を。
 ……どうして……。

 ……でも。
 横目に見えた……監督の悲痛な表情は……悟史の不安を解消させたに違いなかった。
 それを見て……悟史が何を思ったのかは……俺にはわからなかった。
 だけど、悟史は……監督を信頼し、その身を預ける決意をしたのだ……。


「……以上が俺の考えだ。……監督、間違いはありますか?」

 俺はこの考えに自信を持っていた。
 悟史が今消えるなんて絶対にありえない。……つまり、自分の意思とは関係なく消されてしまったに違いなかったのだ。
 ……そう考えれば、これ以外にはありえない。
 だから、俺は監督が何といおうと言い返してやろうと思っていた。
 ……だが、監督は観念したように……眼鏡を取り、右手で両目を押さえた。

「いいえ……。……間違いなどありませんよ……」


「じゃ……じゃあ、悟史君は……」
「……着いて来てください。悟史君のもとに案内します」
 もう言い逃れなど出来ないと覚悟したのだろう。
 監督はスッと立ち上がり、俺達を先導して歩いていく。
 俺達も立ち上がり、監督の後を追った。
 
「……やけにあっさりと認めるんですね」
「……私は……彼に対して人体実験をするなど……最初から望んではいませんでしたから……。……むしろ……あなた達には感謝してるくらいです」
「……」
 監督がそう言うと、詩音が……スッとスタンガンを取り出し、監督の首筋に電源を入れずに押し当てた。
「……詩音さんの怒りも……ごもっともです……」
 そして、その意味を監督は悟ったようだった。
 俯き気味に、まったく抵抗する事なく、その状態を許した。
 ……だが、詩音が次に放った言葉は……俺達の予想を完全に反していた。
「違います。……こうしていれば、仮にスタッフの人に見つかっても私が監督を脅してやっていたと言い訳がつきます。……監督のせいにしたくはありませんから」
「……詩音さん……」
「私は自分の幸せの為に他の人に……協力してもらうならまだしも、迷惑をかけるのはもうこりごりなんです。……圭ちゃんに梨花ちゃまも……分かってくれますよね?」
「みぃ。勿論なのですよ」
「……監督がそれで納得するなら俺はそれでいいけど」
「納得なんて出来ません。……これは、私がまいた種のはずです。……そういうわけで押し付けているのなら、そのスタンガンをすぐに離してください」
 監督はそう言うが、実際問題どうする事も出来ない。
 詩音がスイッチを入れればそれでおしまい。監督が気絶するだけで、俺達にも監督にも何の利益もない。
 だからと言って、言動には気をつけなくては詩音はスイッチを躊躇なく入れる。
 ……診療所は、広い……とは言えない。何せ田舎の建物だからな。
 監督が気絶しても、俺達で手分けすればすぐに見つかるはずなのだ。

 時間がかかるだけ。
 ……それが、俺達がこうむる、監督を気絶させた時の「不利益」なのだ。
 だが、監督が気絶してしまう事によって起きる彼への不利益は、俺達のとは大きさが違う。
 入江診療所はまだ閉まっていないから、彼が気絶してしまう事は何かしらの不都合を彼自身に与えるに違いないのだ。
 ……だからこそ、監督もそれ以上は何も言わず、黙って歩いていた。

 詩音もそれを分かっていたようで、監督の言葉を無視しながら監督の後ろを歩いていた。

「……こちらです」
 監督は懐に手を入れると、IDカードのようなものを取り出して、スキャニングをする機械へと通した。
 すると、ロックが開き……傍にあったドアがスーッとスライドし、そこには……階段があった。

「地下への階段です。……私と鷹野さんが持っているこのIDが無いと開きません」
 その言葉を聞いて、詩音がハッとしたようにして口を開いた。
「……監督、そのために……あれ以上何も言わなかったんですね?」
「……」
 監督は黙って振り返り、再び歩き始めた。
 ……やはり……監督が言っていた、「感謝しているくらいだ」というのは本当のようだった。
 俺達には何も言わなかったが、こうしてキチンと案内をしてくれているし、詩音が気づいたように……監督がもし気絶していたら、俺達は悟史を発見する事が出来たかっただろう。
 ……口には出さない――いや、今は出せないと言った方が正しいか――が、……やはり、監督も、悟史や沙都子と触れ合った時間を……忘れたわけではないようだった。

 それから、曲がりくねった廊下の突き当たりを何度も曲がり、どれくらいの時間が経ったのか忘れてしまうほどに歩いたところで、監督は足を止めた。
 
「ここです」
 そして再びIDカードを取り出し、扉の傍にあったスキャニング用の機械を通して扉を開けた。

 ……その中は、一面が真っ暗だった。
 ただ一つ、中央にライトが当たっていて……。

 ……そこに、悟史が横たわっていた。


「悟史く――ッ!?」
 詩音がそれを確認し、急いで駆け寄ろうとしたが……監督が左手を突き出してそれを制止した。
「監督、何をするんですか!!」
 もっともな怒りを従えて、詩音が監督に怒鳴り散らした。
 だが、監督はとても悔しそうな顔をしてから……詩音に言った。
「駄目なんです、詩音さん……!! この部屋には五つほど監視カメラが仕掛けてあって、迂闊に近づけばそれを見て山狗がすぐに飛んできます。……そうなれば、私を含め、全員ただで済むか分かりません……!!」
「――え……!!?」
「そもそも鷹野さんが悟史君を連れてくるよう命令したのは、彼がL5を発祥させたにも関わらず、L3の安定状態から……L2、つまり……雛見沢症候群をほぼ完治させていた(・・・・・・・・・)からなんです……!! 今までの研究の成果で、一度L5になった人間がL3未満の数値まで下がる事はありませんでした。……だから、鷹野さんに目をつけられたのだと思われます」
「ど、どういう……事ですか……? L5とからL2とか……何言ってるんです……?」
「……詩音は知らないんだったな」
 そういえば、詩音は雛見沢症候群の存在自体を知らないんだったな。
 俺は古手さんから聞き、古手さんは監督から聞き……。
 監督が雛見沢に居るのも、この雛見沢症候群の研究をする上で皆をまとめる係りとして呼び寄せられたという事も、無論知らないのだろう。
「詩ぃ。L5、L2というのは、簡単に言えば『雛見沢症候群』という病気の進行状態を示すものなのです」
「低い順からL1、L2、L3、L4、L5となっています。雛見沢の住民がいつものように日常生活を送っている状態がL1。つまり、平常という事になり、L5は雛見沢症候群の末期症状を引き起こし、下手をすると命にも関わる事になりかねない症状が出てくるのです」
「じゃ、じゃあ悟史君は……その、雛見沢症候群って病気にかかっていて……、一度……命の危険をともなうまでに進行させていたっていうの……?」
「そうだ。L5は幻聴や幻覚、妄言の兆候が見られ、リンパ節に沿ってかゆみが走る。人が言った事をいちいち疑い、余計な妄想が加わって、それが本人や仲間を追い詰めるんだ」
 ……詩音は、信じられないというような表情をしていた。
 自分が知らないところで、そのような病気が雛見沢を侵食していたのか。
 自分が知らないところで、悟史君はそのような病気とも戦っていたのか。
 ……そんな事を思っているのだろう、目を見開いて口を開けたまま黙っていた。
「ただ、L1は雛見沢の住民の皆を指します。これはつまり、発祥をしていないのと同じ扱いとなり、……例えば、今の梨花さんはL1であるといえます」
「……」
「L2も特にこれと言った問題があるというわけではありません。……多少、物音に敏感になったり、心拍数が上昇する傾向が見られますが、日常生活にはまったく負担は無いものと見て間違いないでしょう」
 俺達は誰もしゃべらなかった。
 監督が話す一字一句を聞き逃さないように……俺も、詩音も耳をひそめていた。
「ただ、L3以上はそうはいかなくなります。L3になると、被害妄想が人格を支配していくようになり、幻視や幻聴もこの頃から現れます。ただ、L3の段階は日に二、三度注射によって薬物を投与すれば日常生活に支障はきたしません。……次に、L4。これは、末期になる一歩手前です。被害妄想はさらにひどくなり、周りの人間を疑うようになります。疑心暗鬼に取り付かれ、本人の意思は知らず知らずに押しとどめられて徐々に行動が暴力的になっていきます。この頃になると、当人の性格や言動も乱暴になってきて、人が変わったように感じる人も居るかと思います。薬物投与による押さえ込みも段々と利かなくなっていきます」
「……!!」
 詩音は驚いたような、それでいて……何か納得したような表情をした。
 ……俺には彼女が何を考えて、何を思っているのかなんて分からない。
 だから、監督の話に集中する事にして、詩音へと向けた視線を再び監督へと向けた。
「最後に……L5。先ほどから何度も述べているように、これは雛見沢症候群の末期症状で、L4の症状がよりひどくなったと考えていただければ結構です。……ただ、L4との違いが二つあります。……一つは、足音(・・)が聞こえるようになる事」
「……!!?」
 ……足音……?
 足音って……あれ……か……?
 あの……ペタペタペタペタ……どこまでも追っかけてくる……あの……!!?
「……信じられないというのも無理はありません。……私も、そうでしたから」
 監督はそこで一旦区切り、俺を見た。
 ……それは、俺もかつてL5を発祥していたという事を……俺に『明確に』伝えるための視線に他ならなかった。
 それから少し間を開けて、監督は再び口を開いた。
「……私達は水面下で様々な実験を行ってきました。……その結果、……L5の患者は……時折『ペタペタと誰かがついてくる』と、息を荒げながら言うのです。……無論、私にはそんな音は聞こえませんでした」
「……」

 体中が一気に冷え、冷や汗がどんどん出てくる。
 ……一歩間違えれば……俺も……死んでいたっていうのか……。

 ……九死に一生を得るどころか……俺は九死に二生を得たようだな……。……本当に運がよかった……。

「そして、最後の一つ。……それは、」
 監督はここで言葉を切り、一度つばを飲み込んでから……最後の言葉を吐き出した。
「喉を掻き毟って死ぬ、という点です」

 俺は、監督の話を聞いていて背筋がゾッとするのを覚えた。
 話を聞く限りじゃ、俺は間違いなくあの時(・・・)雛見沢症候群の真っ只中に居た。
 下手すれば、俺も……喉を掻き毟って……。
「……」
 想像したくもなかった。

「……そして、雛見沢症候群は一度L5まで発祥すると、完治する事が出来ません。……せいぜい、L3の状態で注射を続け、日常生活に支障をきたさない程度にするのがやっとのはずなのです」
 監督がそう言うと、詩音が疑問を持ったように踏み出して言った。
「……ちょっと待ってください。じゃあ、どうして悟史君は……その、L2って状態にまで……戻る事が出来たんですか?」
「それが分からないんです。……だから、鷹野さんに目をつけられたとも言えるのですが……」

 監督と詩音が、悟史がどうしてL2にまで戻る事が出来たのかをあれやこれやと言い始めた。
 ……二人には悪かったけど……俺と古手さんは、どうして悟史が元に戻る事が出来たのかを……知っていた。

「詩ぃと……特に、入江。お二人にも、この事を話しましょう」

 古手さんは一歩前に出て、詩音と監督を見つめた。
 
「実は、雛見沢症候群には……ある特効薬があるのですよ」
「……特効……薬……?」
 古手さんの言葉に、監督が敏感に反応した。
「まさか、そのようなものは……」
「あるのです」
 監督が額に手を当て俯きながらながらブツブツと言い始めたが、古手さんがぴしゃりとそれを制止させた。
 詩音は、興味深そうに話を聞いている。

「それは、他者を信じる心」


「……他者を……信じる……?」
「……雛見沢症候群は心の病。そして、発祥のきっかけは『些細な出来事』なのですよ」
 古手さんがそう言うと、監督はハッとしたように俯いていた顔を振り上げた。
 それから、古手さんへと視線を向け、震えながら口を開いた。
「そう……か……。そもそも雛見沢症候群は『些細な出来事』によって誰かを疑う事から発祥するから……その根源を断ち切ってしまえば……」

「病は完治するのです」

 
 監督は、嬉しいような悲しいような、よく分からない表情をしながら……それでも、歓声をあげた。
 まるで、コロンブスが新たな大陸を発見したかのように。
 古手さんの一言に、完全に「研究者」としての魂を燃やしているようだった。

「……そう……か……。ひょっとしたら、貴方の言う『信じる心』は……雛見沢症候群に対する何かしらの抗体を作るのかもしれませんね」
「……抗体……ですか」
「そうです。他の病に対して、それぞれある薬の中に入っている抗体があるように、……雛見沢症候群であっても、それがあり、決して不治の病ではなかったという事が証明できるかもしれません……!」
「でもさ、監督。そんな事しちまったら研究は終了するんだろ? 終わらせちまっていいのかよ?」
 俺は、何となくそう言ってみた。
 研究が終われば、監督もここを去るかもしれない。……俺は、それが嫌だった。
「……前原さん。研究とは『終わらせる為』にあるのですよ。……私は、長年願ってきたんです。雛見沢症候群を完全に治す事の出来る薬の開発を……!」
 監督の目はとても輝いていた。
 新たな発見があり、それに対してどんどん実験を繰り返して……最後には薬を必ず完成させようという、監督の純粋な心構えが……よく現れていた。
 ……それを聞いて、先ほどの発言がどれほど身勝手なものだったかを知り、俺は自分自身に蹴りを食らわしてやりたい気分になった。

「それに、抗体を使って薬を作りさえすれば、我々は自らにふりかかる危険を恐れずにさらなる研究をする事が出来ます! ……そして、今回の悟史君の件で分かりましたが、これほど人間の『心』によって症状の良し悪しに変わりがある病気は私は今まで聞いた事がありません。悪い時は本当に手がつけられないほどの状態に陥るのに、その後のケアによって後遺症を残す事無くここまで元通りの生活に復帰できる病気の存在なんて、誰が想像できたでしょうか……! そもそも、雛見沢症候群は『雛見沢という土地に住み着いた者にのみ』発祥する、という特殊な発祥条件があります。……これは、他の病にはまったく当てはまらず、極めて特殊、さらに前述した事をあわせれば……雛見沢症候群という名は医学関係者なら誰もが知る存在へとなる事でしょう……!」
「う……おぉ……。す、すげぇな」
「勿論、初代研究者である高野一二三氏の名もまた同じように響き渡るでしょう……!! 鷹野さんも喜ぶはずです!!」
「……それじゃ……」
 古手さんは、その……監督が嬉しそうに語った言葉を耳に入れ、何か……確信めいたもの持っていたようだった。
 ……詩音と同じように、俺には彼女の考えは読めない。……知る事も出来ない。
 だけど、彼女が微笑を浮かべて、「そう……」と一言言った時、俺はもう深く考えるのをやめた。

 古手さんが……笑いながら、そう言ったのなら……もう、これ以上の詮索は不要だ。
 彼女だけが知っていればいい。俺が知るのは、彼女が自ら語る時までおあずけだ。
 俺はそれでもよかった。
 彼女が今俺達に話さないのだと判断したのなら、……きっと、それが正しいものなのだから。


「……喜んでるところ、悪いんですけど」
 そんな俺達を、詩音が……冷ややかな目で見つめていた。
 まさか……またさっきみたいな事を言うんじゃないのだろうかと俺はヒヤヒヤしたが、……幸か不幸か、詩音から出された言葉は罵倒文句などではなかった。

「……それ、悟史君の意思とは関係なく……彼に人体実験を続ける事が……前提ですよね?」
 
 詩音の一言に、場は再び凍りついた。
 ……確かに、そうだ。
 『抗体』は悟史の中にあり、それを研究するためには悟史の協力が不可欠だ。
 だが、悟史は拉致同然に無理矢理連れてこられ、あまつさえ人体実験まで勝手に受けさせられそうになっているのだ。
 
 悟史が、それを許すはずがない。

 だから……眠らせたまま人体実験を繰り返すか?
 ……それも、監督は耐えられないだろう。
 ……尤も、今の監督はそれすら忘れてしまうほどに興奮していたようだが……。
 ……詩音の一言に、それも一気に冷めたようだった。
 
 ……やはり……どこまで行っても「壁」は……存在するのか……。      
 
 俺は詩音をチラリと見た。
 ……その、表情は……、悟史には指一本触れさせないという強い決意が宿っていた。
 詩音と悟史は、何度も何度も引き裂かれてきた。
 時には、自分の意思で。……時には、第三者による理不尽な意思で。
 ……もう、そんな思いをするのは嫌なのだ。……詩音も、悟史も。
 だからこそ。……詩音は、戦う意思を明確に表示させているのだ……。
 
 ……これはテコでも動かないな。
 ……俺は、瞬時にそう感じた。……それから、俺は詩音の横に移動し、両手を広げた。
「……監督には悪いけど、俺は詩音の味方をするぜ。本人の意思のもとにならともかく、無断で勝手に人体実験なんて、そんなのは許される事じゃない。それに、悟史が望まない限りは絶対に悟史も詩音も『幸せ』にはなれない。俺達が勝手に決める事ではないが、俺は絶対にそれは許さない」
「……圭ちゃん……」

「……」
「……」

 監督も、古手さんもしばらく黙っていた。
 監督は……目の前の現実と理想との間で葛藤をしているようで、冷静を装いながらもじんわりと汗がにじみ出ている。
 古手さんはひたすら俺達を見つめており、視線を逸らそうとしない。 
 ……今、この場は……永久とも思われるほどに長い沈黙に包まれた。

 誰も何もしゃべらない。……いや、しゃべれない。
 今までどれだけ似たような経験をしてきたか分からない。
 ……今回の沈黙だって、その中の一つに過ぎないのだろう。
 だが、今までのどの沈黙よりも……時間が経ってゆく感覚が狂わされていく。

 時計などという物がこの部屋にあるはずがなく、かと言って誰も腕時計などという気の利いたアイテムを持っているわけでもない。
 
 沈黙が始まってどのくらい経ったのか。
 五分程度しか経ってないのか、それとも……もう、何時間もこうしているのか。
 
 俺達は、文字通り並行線上に立っている。
 俺と詩音がこちら側で、古手さんと監督があちら側。
 互いに交わる事……すなわち、接触する事が許されないのが平行という線の上にある限りつきまとう運命だ。
 言葉を発する事が出来ないのか、それともしないのか。
 ……監督は明らかに前者だ。俺達に何と言えばいいのかが思いつかない。だからと言って、この沈黙を続ける気も無い。
 何かを言わなければ。
 ……そう、焦れば焦るほど、何を言っていいのかの検討がつかず、どうにも出来ない状態になっている。
 古手さんも、監督と大差無いのだろうと思った。
 何も言わない。口を開こうともせず、俺と詩音を見つめるだけ。
 こちらも何を言えばいいのか分かっていないのだ。
 余計な事を言って場の空気を悪くするわけにはいかない。……だけど、このまま何も言わなければ一歩も前進しない。
 ……圭一達も、私たちも。

 ……そう、思っている気がした。
 
 そして、俺は彼女の思っている事が何であるのかを知った時……何をすべきなのかを、見出す事が出来た。


 俺は広げていた両手を下げ、振り返って悟史へと視線を送った。

 ベッドの上で、点滴をされながら……悟史はすやすやと眠っている。
 おそらく、あの点滴の中身は睡眠薬の類だろう。……あれがある限り、悟史は絶対に目覚めない。
「け……圭ちゃん……? 何するの……?」
 俺が一歩踏み出そうとした……その時、詩音が不安気な声色と表情で俺に言った。
「……詩音が何を心配しているのかは分かる。……だが、今は俺にまかせてくれ」
「……」
 それ以上、詩音は何も言わなかった。

「監督、悟史を起こしますが構いませんね?」
「――!!」
 俺の言葉に、監督はようやく我を取り戻したようで、慌てて
「いけません!!!」
 とだけ俺に言った。
 ……だが、言っただけ。他には……何もしない。

 ……監督も、分かっていたのだ。
 これ以上沈黙が辺りを漂っていても、それは何の解決にもならないのだ。
 お互いが黙りこくっていて一体何になる? 伝えたい事があるにも関わらず漂う沈黙がそれを許さない。……その歯がゆさは、耐え難い苦痛だ。
 ならば。……最も簡潔な解決方法を取るのが……筋ってもんだろう!

 俺は……一歩を踏み出した。
 二歩目、三歩目と悟史へと近づいてゆく。

 ……カメラには完全に俺の姿が映っているだろう。
 だが、そんな事は……些細な問題でしかなかった。
 俺は、悟史とつながっていた点滴を抱えて、監督のもとまで運んでから、それらを下ろす。
 
「監督、点滴を外してください」
「……分かりました……」
 監督は悟史の傍に方膝をついて、慣れた様子で点滴を外していった。
 ……流石、現役バリバリのお医者さんだ。こういう器具の扱いにはやはり慣れているようだ。
 監督が完全に点滴の器具を取り外すと、俺は詩音をこちらへ呼んだ。

「何ですか……?」
 詩音は多少疑問を持っていたらしく、声色からそれが伺えた。
「悟史を起こしてやってくれ」
 だから、最も分かりやすい形で……詩音を呼んだ理由を伝えた。
「……」
「これは……きっと詩音にしか出来ない事だろうから」
「……はい……!」

 ……詩音は悟史のもとへと歩いていき、傍らでしゃがみこんだ。
「……悟史君。……起きて……? ねぇ、悟史君」
 それから、悟史に……語りかける。
 ……その声は、とても……静かで、悟史の眠りを、自ら妨げようというものではなかった。
 悟史を起こす事を目的としている今、その行為は本末転倒以外のなにものでも無い。
 ……だけど、誰も文句など言わなかった。

 悟史は、起こすのでは駄目なんだ。
 

 ……自らの力で……起き上がってくるのを……願うしかないのだ……!!
   
「……!!!」



「……あらあら……」
「「「――ッ!!?」」」

 ……その……誰かの声が聞こえた……と、思った……刹那。


 ――銃声が……聞こえた。


 ……何だ……?
 何が……起こった……??

 ……わけが分からなかった。
 誰かの声がしたな、と思って……上を見上げた。
 そしたら……そこには、鷹野さんが居た。……監督はこの部屋を開けるには鷹野さんと監督の持っているIDが必要だと言ったから、これは必然といえば必然で……。
 ……俺が見落としていた……大きな落とし穴だった。
 
 ……その手には……拳銃が握られていた。
 そして……その銃口は……。
 


  
 ……詩音に向いていた。
 



「うぁあぁあああああ!!!!!」
 詩音……気づいていない……!!
 悟史にずっと語りかけていて……何も聞こえていないんだ……!!!
 俺が……止めなければ……!!! 俺が……俺が……!!!
 また……二人が引き裂かれちまうッ……!!!
 ――!!!

「……っぐ……うぅう……」
 俺が、スローモーションで動いてゆく銃弾を……受けようと、手を伸ばした……その時……。 
 俺達の前に……影が出来た。
「……か……監督……!!」
 
「……あら……」
 
 監督の腹部からは、血がドクドクと流れ出ていた。
 俺は……それを見て……感じ取った。

 ……監督の、優しさを。

 そして……悟史を連れ去った事に対する……ケジメをつけようとする気持ちを。


 ……監督は、俺達の……盾になってくれたのだ。



 悟史を連れ去り、もし……このまま人体実験などを続けていけば……悲しむ人が必ず出てくるのだ。
 俺達は勿論の事、……特に、沙都子に……詩音。

 悲しませた挙句、その命すら絶つ事が……どれほど残酷な事か。

 ……監督は、それを……させまいと身体を動かした。
 俺達の……盾となるために……。

「……入江先生も随分と変わった事をしますのね……。くすくす……」
「じゅ……銃を下ろしてください……鷹野さん……!! 詩音さんを撃つ必要は……ありません……!!」
「……何を言っているのかしら?」

 ……その、言葉を聞いた時。 
 世界の色彩が……ぐるりと反転した。

「単純に彼女が一番目(・・・)だっただけよ」

 



 
 俺は、足に全ての力を集中、床を蹴り上げ……一気に鷹野さんに接近した。
 そして、拳銃を突きで跳ね上げ、空中へと舞ったそれを……そのままキャッチした。

「……ハァ……ハァ……ッ……!!」
「……あなたは……そう、前原圭一君だったわね」
 拳銃を弾き飛ばされ、一度は動揺した鷹野さんだったが、すぐに平静を取り戻して俺の名を呼んだ。
  
「あれは一昨年だったかしら? ……上手に埋めてたわね、」
「……?」
「死体」
「――ッ!!!」

 ……世界は、再び色彩を取り戻した。
 無我夢中だったから、自分が何をしたのかも……よく覚えていない。

 ただ、頭の中に……あの時の光景がフラッシュバックした。
 それだけしか……頭の中には無かった。

「最初から見物させてもらったわ。昭和54年に殺害された現場監督みたいに……バラバラに解体して、穴を掘ってその中に埋めてたわよねぇ? ……くすくすくす……!」
「あ……あ……」
「自分が何をしたのかも忘れていたのかしら? ……聞いた話によれば貴方は仲間だの信じろだの色々言ってたそうだけど」
 
 ……何なんだ……? この……気持ちの揺れは……?
 強引に、感情に地震を起こさせられたかのような……激しい揺れが、俺を襲っていた。
 
 それは、今までに経験した事の無いものだった。
 幾度も幾度も揺れ続け、地盤をゆるませ……崩壊へと導いていく。
 
 ……俺は、感じ取っていた。
 鷹野さんが……次に言葉を発した時……。

 ……俺は、崩れると……。

人殺しを信じろって? 笑わせるわね……! くすくすくす……!!」
「――ッ」
 ……叫ぼうと思った。
 何もかも、忘れて。
 ……腹の底から……声を搾り出して、思いっきり叫んで。
 ……全てを、吐き出してやろうと……そう、思った。

 ……俺のした事は、間違いなんかじゃなかったって……そう思ってたから。
 そう思ってたからこそ、自分に自信が持てた。……俺は、間違った事はしていない。ずっと、そう思っていたから。

 ……それが、崩れ去った。
 それは、全てが崩れる前兆。
 俺は、俺自身が……崩壊していくのが……分かった……。


「五月蝿いッ!!!!」
 その……崩壊が、ピタリと止まった。
 誰の声か……なんて、今の俺には愚問だった。
 ……うな垂れたまま、俺は流れに身を任せる事にする……。

「鷹野三四……。あなたにそんな事を言う資格はないわ」
「あらあら、共犯者さんも居たのね」
「黙りなさい」
 鷹野さんの言葉には、いちいち棘があった。
 ……しかも、その辺に転がっているようなものじゃない。……鋭く、何度も何度も研ぎ澄まされたかのような……鋭い棘だ。
 だが……それにすらも、古手さんは揺さぶられない。……凛した態度で、鷹野さんに立ちはだかっていた。

「人殺し? 共犯者? 笑わせるわね。そう言う貴方はどうかしら? ……少なくとも、昨年……貴方は山狗に人殺しを指示し、実行したんじゃないのかしら?」
「覚えは無いわね」
「とぼけないで。現に圭一は山狗の姿を目撃し、交戦もしている。私は姿こそ見なかったものの、背後から即効性の睡眠薬で眠らされたわ。……それは、入江診療所の関係者が関わっていた事を如実にあらわしている……!」
「それがどうして私になると? 入江診療所の関係者なんて山ほど居るわ」
「今この状況がそう言ってるじゃないの。山狗は貴方の指示にしか従わない。……それに、人を平気で撃つその腐った性根があなたが黒幕だって事を証明しているわ!!」
 
 ……古手さんの一言一言は……俺にとってとても輝いていた。
 神々しく光輝き、俺の前で……俺の代わりに戦ってくれている。
 
 ……その、勇気。

 俺は……しっかりと受け止めた。
 ……崩れていった心は、急速に再構築をしていく。
 ……彼女の、光が。勇気が。
 それを……急速に早め、次々に俺の心を修復していくのだ……!!!

 俺は、立ち上がった。

「……あら? そのまま地べたに手をついていた方が素敵よ?」
 立ち上がった俺に、鷹野さんは侮蔑的な視線を送り、さらに言葉をぶつけてきた。
 俺もにらみつけた後に不適に笑い、受けたもの全てを返してやるつもりで一の句を放つ。
「ヘッ……お互い似たもの同士だろ? ……つくなら一緒に手をつこうじゃねぇか!」
「冗談。私は貴方とは違うわ」
「……そりゃそう」
「……そうね。圭一と貴方は違うわ」
 俺が言い返してやろうと言葉を放とうとすると、古手さんが俺の前に手を出して制止するように促し、一歩前に出た。

「片や自分の力を信じて積極的に前へ進もうと足を踏み出す行動派。……もう片方は山狗という組織の後ろに隠れて命令だけを出している臆病者ですものね」

 監督が射撃を受けた部位の痛みも忘れて微笑を浮かべ、鷹野さんの後ろに居る……山狗は、苦笑いをしていた。
 ……その反応を見る限りでは、……おそらくその通りなのだろう。  
 そして、それは完全に鷹野さんの逆鱗に触れたようだった。
「……言ってくれるわね。小此木!」
「……了解」
 鷹野さんがそう言うと、彼女の背後に居た山狗の一人と思われる人物が前に出てきた。
 その男を見て、俺も古手さんの前へと出てゆく。
「……古手さん、詩音達と監督を頼む」
「……圭一はどうするのですか?」
「聞かなくても分かってるだろ?」
「……」
 ……どう見ても目の前の男は、去年俺が見た山狗とはがたいが違う。
 筋肉のつき方、そして……戦闘経験の差を物語る冷静ぶりが見られた。
 ……一目で分かる。……こいつが、山狗のリーダーだ。
「……お前に恨みはねぇんだけどよ。悪いがお姫様の命令だ」
「……」
 俺はチラリと、背後で寄り添っていた詩音と、いまだ眠ったままの悟史を見た。
 ……負けるわけには、いかない。
 ここで俺が倒れたら、間髪入れずに目の前の男は悟史奪還のために詩音へとその拳を振るうはずだ。
 監督も腹を撃ち抜かれて動ける状態じゃない。……そもそも、戦闘となったら経験の無い者ではまったく太刀打ちできないだろう。
 
 俺が何とかしなければならない。

 俺の後ろで、俺を……信じてくれる人達が居る限り……!!
 負けるわけにはいかないのだ……!!

「……聞いたぜ? 朱雀一を倒したそうだな」
「……?」
「俺達の識別ナンバーみたいなもんだ。朱雀ってのは小隊名で、後ろについているナンバーは強さを表す。ようするに、お前が去年倒したのは朱雀って小隊のリーダーさ」
「……あれが……か。……まぁあれは俺の力で倒したものじゃないからな」
 あの時は眼の力のおかげで勝つ事が出来たんだ。
 ……あれから、一年経っているが……実際に俺が経過している時間はそんなに無い。
 戦闘経験は……ほぼあの時のままだと言ってもいい。
  
 だが、小此木が言う、『朱雀一』との戦いは、間違いなく俺の中での『戦闘経験』として蓄積されたはず……。
 初めて相手した奴があんなに強いとは思わなかったからあの時は驚きと動揺で最初こそ苦戦してしまったが、今はそんなものは無い。
 俺は、改めて目の前に居る男を凝視した。
 ……はっきり言って、俺よりも小此木の方が強い。……それだけは、間違いなかった。
 だから油断もしないし、眼の力も……ギリギリまでは使わずに相手をしようと思った。
 ここは、俺自身の力で対抗しなければ意味が無い。……大石さんが言っていたじゃないか。俺は眼に頼りすぎだと……!
 それじゃ俺は変われないのだ。去年と同じままじゃ、止める事が出来ない。
 今年は……なんとしても守らなければならない人が居る。……そして、そいつらは俺の後ろに居るのだ……!!
 だからこそ……俺はこの戦いで……変わらなければならない……!!

「圭一」
「……!」
 俺の後ろから、古手さんが声をかけた。
 俺は振り返らずに二の句を待つ。
「……これが、最後の山ですよ。頑張って……!」
「……ああ!!」

 俺は、一歩前に出て……構えた。

「……ほぅ……」
 俺の構えを見て、何かを思い出したかのように小此木は声を漏らした。
「……四年前だったか。そういえばお前とは相対したな……。その構えも、大石とかいう興宮のオヤジのものだろう?」
「……な……!?」
 ……四年前……? ……昭和……53年……。
 俺の中に、ある出来事が浮かんできた。
「お……お前……あの時の誘拐犯の一人か……!!」
 ……そうだ。建設大臣の孫が誘拐された事件があり、俺と赤坂さん、大石さんで現場まで行ったのだ。
 その時相対した奴等の中に……確かこいつも居たはずだ……!!
「……思い出したか。……まぁ俺もお前を思い出すのに時間が掛かったから無理ねぇけどよ」
 小此木は含み笑いをしながら肩を上下させた。
 ……何が面白いっていうんだよ。
「……そこの小娘もあの時居たはずだろう? 奇妙なめぐり合わせだと思ってな」
 小此木は詩音を指さしてそう言った。
 ……当の本人はまだ悟史へと語り続けており、俺達には気づいていない。……いや、今はむしろそうしていてくれた方がかえってパニックにならないからそのままでいい。
 俺は視線を小此木に戻した。
「……確かに……そうだな」
「……まぁいい。そんな事は今関係ないからな」
 そう言い終わると、小此木も腰を少し下ろし、構えた。
「あの時は加減しろと言われてたし、油断もしてたからな。……気絶させられちまったが、今度はそうはいかねぇぞ……坊主……!」
 小此木はそう言ったが、俺はあえて返事はしなかった。
 ……無言で、奴をにらみつける。
 
「へ……へっへっへ……! 気に入った……。お前みたいな奴は将来大物になるぜ」
「……お褒めの言葉どうも……」
「……本当は将来が有望そうな奴を潰すようなマネはしたくねぇんだが……それすらも今だけ切り捨ててお前をねじ伏せてやろう……。これ以上お互い言葉はいらないはずだ」
「お互い拳で語ろうってわけだな……。 のぞむところだ……!!」 

 不思議な感覚だった。
 目の前の……この男は、俺達の敵であって倒すべき相手だ。
 だが、今はこいつを『倒す』というより、こいつと『闘いたい』という気持ちの方が強くなっていた。
 ……俺自身の力を、証明するために。
 何より、俺が叩き付けた挑戦をこの男が受けてくれた事に礼を言うために……!!

 俺は小此木へと向かい、一気に踏み込んでから拳を放つ……! 
   
「甘い甘い!!」
 だが、突き出した腕を奴の腕が払いのけ易々とかわされてしまう。
 そればかりか、無防備になった腹部へ……キツイ蹴り上げが襲う……!!
「……っぐ……!!」
 俺は間一髪、左手の掌でそれを受け、ダメージを最小に抑える事に成功。
 そのまま左手で足を払いのけ、俺はバックステップで小此木から離れた。
「ハァ……ハァ……ッ……」  
 くそ……、こりゃ……随分とデカイ差があるもんだ……!!
 この男は、俺の……何千……いや、何万歩も前を……行ってやがる……!!

 単純に拳を振り回しているだけじゃこいつには絶対に勝てない……!!!
 どうする……どうする……!!?

「俺が考える時間をやるほど甘い奴に見えるか!?」
 俺が動きを止めて考え込んでいると、間髪入れずに小此木は踏み込み、俺の懐に一気に入り込んできた。
「――な……!!?」
「そら……一発!!!」
 そして……俺の顎が砕かれた。
 懐に入り込んでから……顎に一撃を叩き込む。……これ……は……!!?
 俺はのけぞり、宙に浮いてしまう。……そのため、次の小此木の動きに対処する事が出来ない……!!

 小此木はそのまま俺の腕を取り、俺を投げ飛ばす……!!
 宙に浮いたまま、俺はまったく身動きが取れない。……そこに……!!
「うおらぁッ!!」
「――が……ッ!!!」
 鳩尾(みぞおち)に……力の込められた拳が襲い掛かり、俺は急激な吐き気を覚え、意識が一瞬遠のいた。

 ……こ……これ……は……。

「分かるか? お前が朱雀一に使ったもんだ。俺のオリジナルじゃねぇからお前ほどの威力は無いだろうが、自分が使った技がどれほど相手に苦痛を与えるもんかがよく分かるだろう!!」
「く……ちく……しょう……ッ……」

 だ……駄目だ……!!
 鳩尾を突かれるってのは……こんなにもダメージを負うものなのかよ……!!?
 一撃食らったのは腹部だってのに……体中に痛みが走り、息をする事すらままならない……!!
「が……ごほっ……っく、うう……」
 くそ……くそ……!! 
 俺じゃ……どうする事も出来ないのか……!? 結局俺は……何一つ達成する事が出来ないってのかよ……!!?

「やめて!!!」

「――ッ!!?」
 俺が痛みの走る部位を手で押さえて小此木をにらんでいると……声が……した。
 それは、先ほどまで(・・・・・)なら……聞こえるはずの無かった者の……声だった……。

「もう……やめてくれ……!!」
「……さ……悟史……」
 声の主は……悟史以外の誰でもなかった。
 ……詩音が……悟史の目を覚まさせたのだ……!!

 だが……目を覚ました悟史が言い出したのは……俺の予想とは大きく……違ったものだった。
「鷹野さん……僕はあなたの指示に従うよ……! だから……もう、圭一を傷つけるのを止めてくれ!!」
「な……!? 駄目だ悟史!!!」
 俺は声を荒げて反論した。
 ……俺はさっき、『本人の意思とは関係なく』人体実験をするような真似は許さないと言った。
 だが……これは悟史の意思じゃない……!! 言うならば……『脅迫』と同じだ……!!
 俺は……それを断固許す事は出来ない……!!!
「……あらあら……。……まぁこっちは構わないけどね……?」
「だ、駄目です悟史君……!! 貴方は生きた身での人体実験がどれほど辛いものかを……分かっていない……!!」
 鷹野さんが嫌な笑いを浮かべながら言うが、監督もまた俺と同じようにそれを否定した。
「私は……今まで、死体を相手に……何度も何度も実験を繰り返してきました。……その度に、その実験の内容に……これが生きた人間であるのならば……到底行えるものではないと思い続けていたんです……!!」 
 監督は必死にそれらを述べながら、腹部を押さえて悟史に片手で掴みかかった。
「……勿論……人体実験自体、非人道的であり、たとえ息を引き取った後の人間であっても許されるものではないと……分かってしました。……それでも、『研究の成果を挙げるためだ』と大義名分でそれを押さえつけ、今までやってきました……!! ……ですが……!! 貴方にそれを強要する事こそが非人道的であり……最も許すまじ行為であると……今分かりました……!!」
 ……その表情は苦痛と涙にまみれており、それまで自分がやってきた事がフラッシュバックしているのだという事は明らかだった。
 その光景は、自分を崩壊させてゆくに違いないのだ。……俺がそうだったから分かる……!!
 あの時、俺は古手さんに助けられた。……彼女のおかげで、俺は崩れた箇所を再構築し、今ここに意識を持っているのだ……!!
 
 それが、監督には無い。
 崩れてゆく心を必死に……そうならないように押さえつけ、悟史のために……己自身と戦っているのだ……!!!

「悟史君……!! あなたは今までが辛すぎました。……それこそ、苦難の連続であったと言い切ってもいいほどに……!!」
 監督は、搾り出したような声でそう言った。
 ……もう、言葉を発する事すら……ままならないのだ。出血もひどいはず……!! これ以上は……監督の命に関わるぞ……!!?

 ……監督は詩音に視線を送り、それから……再び悟史に戻した。
「貴方も……詩音さんも……。……そろそろ……お二人は『幸せ』について考えるべきです……!! こんな……非人道的な事に手を貸す事ではなく……己自身の幸せについて……考えるべきなんです……!!!」
 詩音は涙を流していた。
 監督に視線を送られ、その言葉を聞いた事によって……一気に溢れてきたようだ。
 
 ……幸せについて、考えるべき。
 ……そうだ。その通りだ……!!
 悟史も詩音も、今まで……どれほどの苦難の中を生きてきた事か……!! 
 聞いた話だけでも……俺自身が彼らと共に戦ってきた中で得た経験からも……それが痛いほどに分かる……!!!
 詩音も、悟史も……これ以上不幸の中を生きる必要は無いんだ。
 ……そうさせてはいけないんだ……!!!!

「うおおぉおおぉおお……!!!!」

 俺は全神経を足に集中し、腹部の痛みを無視して立ち上がった。
 
「監督の言う通りだ……!! お前たちは幸せを考えろ……!! 言っただろ!!? 幸せは全ての人に与えられる!! 努力という代償のもと、均等に与えられるものなんだよ!!」
「圭……一……」
「お前たちはもう充分苦難を味わい、努力を重ね、そして今ここに至ったはずなんだ!!! もう無理をする必要なんて無いんだよ!!!」
 そうだ。
 詩音が……そうだったように。
 悟史だって、幸せになりたくないわけが無いんだ……!!
 それなのに、俺がふがいないせいで……俺が膝をついてしまったせいで……!!
 悟史はそれを棒に振ろうとしているのだ……!!!
 俺のせいで!! 悟史は幸せを捨てようとしているのだ!!!!

 言っただろ!? 誓っただろ!!?
 俺が!! 自らの意思で!!! そう思ったから誓ったんだろうが!!!!
 俺が二人を不幸にしてどうするんだ。俺がこいつらを幸せにしてやらなくてどうするんだ!!!
 そのために……目の前に立ちはだかる敵がいるというのなら……!!!
 蹴散らしてやると豪語したのはどこのどいつだよ!!!?

 俺だろうが!!!!!

 俺がそう言ったんじゃねぇか!!!!
 それを……こんなところで、たかが一発食らわされたくらいで何を俺は弱気になってやがるんだ!!!?
 こんな事くらいで座り込んでどうする!? 歩みを止めてどうするんだよ!!?
 悟史は立ち上がった!! 運命をぶち壊してやろうと、今……眠りから目を覚ましたんだ!!!!
 それなのに!! 俺が座り込んでどうする!? 俺が悟史の荷物になってどうするんだよ!!?
 俺は……もう二度と誓いを破らないと……心に決めただろうがよ!? ここでもまた裏切る気か!? そんな事が許されるわけがねぇだろうが!!!!

「俺の三つ目の誓い!!! 悟史と詩音を幸せにしてやる事!!!!」

 俺は声を張り上げ、叫んだ。
 今まで守れなかった事を、もう……繰り返さないために。
 そして……何より。

 今まで与えられっぱなしだった『勇気』を……『俺自身の勇気』の全てを奮い起こすために!!!!


「行くぞおぉおおお!!!」
 俺は唖然としてた小此木に向かって再び拳を振りかざした。
 ……ハッとした小此木は、一瞬動揺を見せたが、すぐに……先ほどと同じように腕を払いのけ、懐に潜り込んでくる……!!

 ……だが……結果は違った……!!!

 懐に潜り込んできたところで……俺の(・・)左手が作った拳が、奴の顔面に叩き込まれたからだ!!!


「ぐ……ああぁぁあッ……!!?」
「ハァ……ハァ……!!」

 さっきの俺達のやりとりを見て、小此木が唖然としていたのが目に入った瞬間、俺はこれを実行したのだ。……小此木が再び俺に対して構える前に!!
 
 呆けていた時に突然俺が襲い掛かってきた。……しかも、先ほどと同じように拳を振りかざして。
 俺が襲い掛かった相手が、小此木という、熟練した体術が行える者だったからこそ、俺の先ほどと同じ行動に……やはり、先ほどと同じように(・・・・・・・・・)対処すれば問題無いと思い込んだのだ。
 ……というより、頭で考えるより身体がそう判断した!!
 熟練であったからこそ、こうした攻撃への対処が身体に叩き込んである。そして、先ほど俺に使ったところ……見事に成功したのだ。
 再び、同じ事を繰り返すだけだと、そう判断したのだ!!
 そうすれば、身体は勝手に動いてゆく。……つまり……俺が予想した通りの動きをしたのだ……!!

 そうなる事を予知していたからこそ、俺は左手を防御ではなく攻撃に(・・・・・・・・・)使用する事が出来たのだ。
 そして、小此木は足で俺の腹部を蹴り上げようとしていたわけだから、俺の突然の攻撃に対処できるはずもなく……顔面に直撃を受けたのだ……!!

 それを見た鷹野さんは、表情を険しくして怒鳴った。
「何をしているの小此木!!? 小僧一人に一撃加えられるなんて、あなたらしくないわよ!!?」
「すんませんねぇ……。何、少し油断しただけですんわ」 
 それを受けて、嫌々そうに返事を返した後、小此木は再び構えた。
 ……表情が物語っていた。……今の一撃で、目が覚めたと。
 俺に対して、もう油断などしないと……そう言っていた……!!

「や……止めて……!! 止めてよ二人とも!!」
「悟史!!!」
 まだ同じ事を言ってくる悟史に、俺は一喝した。
 それから、視線は小此木から外さずに……叫んだ。
「俺を……信じろ!!!」
「……!!」
 叫び終わると同時に、俺は小此木に向かって踏み込んだ。
 ……だが、それは無謀以外の何でもなかった。

 相手は熟練した体術師。こちらはようやく基礎が終わった程度の若造。
 相手が構えているというのに、隙を突く事もしようとせずにただ突っ込む事は、的になりに行くようなものなのだ。
 案の定、何の策も無しに突っ込んで行った俺は、攻撃にカウンターをあわせられ、一撃食らって吹っ飛んだ。

「圭一!!」
「来るな!!!」
「……!」

「俺が……全ての決着をつけてやる!!! お前達が……笑ってこれからを生きられるように!!! 俺が最後の大仕事をしてやる!!!」
「……」
「だから!! その目にしっかり焼き付けとけ!!! 前原圭一は確かにこの時代(・・・・)存在(・・)したと!!! お前たちの記憶に刻み込んでくれ!!!!」
「圭……ちゃん……」

「そうしてこそ……!!! 俺が報われる!! 俺の道が正しかった事が証明できる!!!!」

 
「くだらない!! 小此木!! 彼を叩き潰してあげなさい!!」
「了解ですんね……!!」

 小此木は俺に向かって突っ込んでくる。……俺もそれに応えて奴に向かって踏み込む!!!
 全て、終わらせる。

 俺が……幕を引き摺り下ろす!!!

 
 俺が習ったのは柔術だ。
 柔術はもともと、相手の攻撃をいなして流し、そこに反撃を加えるものが主流……!!
 確かに俺は基本しか習っていない。
 ……だが……基本が無ければ応用は生まれない!!!
 だからこそ!!! 基本しか習わなかったからこそ、型にはまる事の無い……俺のみの技を作り出す事ができるのだ!!!
 それがたとえ……戦闘の最中であったとしても!!!!!


 俺は、突き出された小此木の右腕を寸前で交わし、その腕をそのまま掴み、奴の懐に潜り込んで……『投げ』の体制を取る。
 だが、この体制は敵に背を向ける事や、投げるまでの数秒が相手へ反撃のチャンスを生む事になる。……それは俺も充分承知だった。
 勿論小此木もそれを分かっていたようで、腕をつかまれた瞬間に左腕を既に握りこぶしにしていた。
 そして……俺はそれを見逃さなかった。

 だから……蹴った(・・・)のだ。

 奴の、左足を蹴り上げ、強制的に宙に浮かす事によって……小此木の足が地面についている状態によって起こるわずかな抵抗を完全に消し去り、『投げ』が決まるまでの時間を……極端に減らしてやったのだ!!!!
 右足で踏ん張りをきかして。……左足で奴の、同じく左足を蹴り上げる事によって、奴のバランスを崩すと同時に、時間を減らし、理想的な投げの体制を作り出したのだ!!!

「うおおおぉおおぉおおお!!!!!!」
「――ッが……ああぁぁあ!!!」

 そのまま俺は、クルリと宙を一回転させて……小此木を地面に叩きつけてやった……!!!
 握っていた腕は放さずに依然両手で持ち続け、その腕を引っ張り……小此木の身体全体を浮かせ、俺の方へと奴の身体が勢いよく飛び出してきたところに……体制を立て直した俺は再び渾身の力を込め、鳩尾へと一撃を食らわせる……!!!!
 
「――ッが……は……ッ……」 

 俺達の闘いには、誰も口を出さなかった。
 詩音、監督、古手さんは勿論の事……悟史や、鷹野さんでさえも。
 誰も、文句を言う事が出来なかった。
 この戦いに水を差しては駄目だ。余計な事を言えば、最悪自分に拳が降りかかる。
 それを、皆……分かっているようだった。

 だからこそ、俺が小此木に一撃を加えた瞬間……鷹野さんが口を開いた。

「小此木!!!」
 それは、驚きと怒りの混じった声だった。
 まさか、こんな小僧如きに小此木がやられるとでも?
 小此木も小此木だ。こんな奴に何をしているのだ!!
 ……そう、如実に物語っている。 

「……く……お前……強く……なったな……」
 小此木はそれを無視して俺に小さく語りかけた。
「アンタほどじゃないさ……。……俺は確かに投げまでの時間を短縮し、地面に叩きつけはした。……だが、その後……身体を浮かさせられた時、アンタなら俺に拳を振るうチャンスが出来たと判断する事も出来たはずだ。……だけど、それをしなかった」
「……お見通しってわけか。……俺も情けない器になっちまったもんだ」
   
「何をしているの!!! 私は叩き潰せと言ったのよ!? さっさと起きなさい!!!」 

「……俺はしばらくこのまま横になっててやるからさっさとあの小僧連れて逃げな。お姫様は自分一人、しかも銃もお前に取られてるから戦おうという気すら起きないはずだ」
「……どうして俺達を助けるようなマネをするんだよ?」
「知れた事。俺は元々命令で動いているだけだし、……何より、あのお姫様に一杯食わせてやりたいのさ。こっちも普段から色々ストレス溜まってるんでね」
「……そうかい……! ……小此木……だったよな。……ありがとよ……!!」
 鷹野さんの先ほどからの態度を見ている限りでは、それも無理のない事だった。
 おそらく、彼女は……山狗にも、監督にさえも、理不尽な命令を何度も何度もしてきたのだろう。
 彼女が何故そんな事をするのかは分からないが、それに従う方としてはたまったものじゃない。……それが、現状から俺にはよく分かった。

 ……これが、「仲間」と「部下」とでの違いなのだろう。
 上の立場の人間はいつだって命令をするだけで、自分から動きもしない。
 それに不満を感じるのは当たり前だ。
 だが、仲間は違う。
 いつであっても、誰かが誰かに「命令」をする事は無い。「協力」をするのだ。
 「協力」であるし、そもそも自分は仲間をこき使おうなどと思ってはいないから、誰もが率先して前線へと赴いていく。
 俺もそうだし、悟史も……詩音も、古手さんだってそうだ。
 仲間である以上、俺達は永遠につながっているという事を意味し、それはいつまでも助け合っていくという事を意味している……!!
 自分で言うのも何だが、話を聞く限りじゃ俺は皆の為に貢献できたと言えるし、皆も俺の為に……俺を助ける為に様々な手を尽くしてくれた。
 さっきの悟史がいい例だな。俺を助けようと、自らを差し出したのだ。
 ……そういう気持ちを持つ事が出来るのが、仲間ってもんだ。
 ……だからこそ……俺は、仲間である悟史の命を脅かすような事に事態を運ばせないように、こうして戦った。
 そして……勝ち取ったのだ……!!

「くっ……!! ……こうなったら……診療所に残っている山狗を総動員させてあなた達を鎮めてあげるわ……!!」
 そう言い、鷹野さんはインカムを取り出して装着した。
 それを見た瞬間、焦りを感じた俺はすぐに悟史達のもとへと駆け寄った。

 ……おいおい、マジかよ……?
 こんな所にそんだけ集合させられたらあっという間に捕まっちまう……!!
 小此木がチッ、と舌打ちをしたのが俺の耳に聞こえた。
「こちら鷹野よ!! 応答しなさい!!」
 鷹野さんが乱暴にインカムに怒鳴っているのが後ろから聞こえてきた。
「……ちょっと、聞こえてる!? ……ねぇ!? 聞こえてるの!!?」
 ……だが、どうも鷹野さんの反応がおかしい。
 ……?? 一体……どうなってるんだ……?


「はーい、鷹野さん」
「……!? 誰!!?」
 ……その時。
「山狗……だっけ? その人達なら、私達がみーんなやっつけちゃったよ。はぅ」
 通路の向こうから、
「おーっほっほっほ! あんなのを従えていて、よく恥ずかしく思いませんわねぇ?」
 ……魅音、レナ、沙都子が……笑いながら……やってきた……!!

「そ……そんな馬鹿な!!? あなた達如きにやられるはずが……!! そもそも何故地下に居るのよ!!?」
「だーれが私達だけだって言ったのかなぁ?」
 動揺する鷹野さんに、魅音がニヤリと笑ってパチンと指を鳴らした。
 ……すると、彼女らの後ろから……葛西さんを始めとして、黒服スーツにサングラスの軍団が何人もやって来たのだ……!!
「葛西……」
「……無事で何よりです、詩音さん」

「圭ちゃん達の帰りが遅いから、母さんに連絡して皆を連れてきたのさ。セキュリティも、ウチの連中にゃハッキングとか出来る人とか居るからねぇ。園崎舐めないでほしいところだね」
「そ……そんな馬鹿な……!! あのセキュリティは国家レベルのものだったはず……!!」
 鷹野さんはさらに動揺し、話さなくてもいいような事をペラペラと話はじめた。
 これは相当ショックを受けているな、と俺が思っていると、魅音がチチチ、と人差し指を振ってから、得意げに言った。

「忘れたの? 私達は国に喧嘩売って勝ってるんだよ?」
 
 ……それは、決定的なようだった。
 鷹野さんはそれ以上何をするという気にもならないらしく、その場にうな垂れた。
 監督が哀れむよな表情で彼女を見ていたが、因果応報というやつだ。今鷹野さんに手を差し伸べられる人は居ないだろう。
 
「ま、そういう事だから。悟史は返してもらうよ」
「……」
 鷹野さんは何も言わなかった。
 ……いや、言う気すら起きなかったのだろう。小此木の言った通りだった。

「……って、お姉、ここに悟史君が居た事どうして知ってるんですか?」
 すると、詩音が率直に疑問を魅音にぶつけた。
 ……そういえばそうだな。何で知ってるんだよ?

「地下を色々回っていると、こーんな人を発見したのですわよ!」
 すると、沙都子が魅音のマネをして指をパチンと鳴らした。
 それに合わせて、沙都子達の背後から人影が近づいてきた。

「……と……富竹さん!!?」
「や……やぁ、圭一君に……詩音ちゃん……だったね。久しぶり」
 富竹さんは苦笑いをしながら部屋に入ってきた。
 ……驚いた。富竹さんがここに居るだけでも充分だったけど、着込んでいる服がいつものものとは違うのだ。
 ……フリーのカメラマンってのは嘘だったのかよ!?
「富竹さんにみんな聞いたの。……圭一君達が何をしていたのかも、監視カメラの映像が集まっている部屋で見て知ったんだよ」
「……富竹さん……」
 監督が何をしているんだ、というような声でつぶやいたが、彼も同じような事を俺達にしていたので、声自体は弱気な感じだった。
「すみません、入江先生。彼女達が……あまりに熱心なものだったからね」
「……私も分かりますがね……」
 監督も富竹さんも、苦笑いをしてから鷹野さんへと向き直った。
「……鷹野さん、悟史君は解放してあげよう。君の研究熱心なところは分かるけど、これはちょっとやりすぎだ。……ね?」
 鷹野さんのもとへと行き、しゃがみこんでから、富竹さんはわがままを言っている子供をあやすような優しい声で言った。
 鷹野さんはしばらくそっぽ向いて黙っていたが、とうとう観念したようで、口を開く。
「……わ……分かったわ……」
「それだけじゃないだろう?」
 鷹野さんは、「う……」と言っていいぐもったが、既に敗色がこちらにあるという事を理解していたので、次の句が出るまでは早かった。
「……ごめんなさい……」


「ちょっと……! 悟史君を誘拐して……人体実験までしようとして、それだけですか!? 非常識にも程があります!!!」
 だが、詩音は納得できないといったように鷹野さんにつっかかる。
「やめて、詩音」
「……! 悟史君……」
 そんな詩音を、悟史はすぐに制止させた。
「今君がやっている事は弱い者いじめと変わり無いよ。……分かるよね?」
「……はい……」
「いい子だね」
 悟史は詩音の頭を撫でて彼女の気持ちを抑え、それから鷹野さんに向き直った。
 ……鷹野さんは弱い者いじめ、と言われて不服な様子だったが、現状それと何ら変わりがないので何も言い返せないようだ。
 悟史はうな垂れて、腰を下ろしていた鷹野さんに近づいて、しゃがみこんだ。

「いいですよ。許します」
 そして、それだけを言って、にこりと笑った。
「……」
 鷹野さんはそっぽ向いていたが(詩音がまた憤慨したが今度は俺が羽交い絞めにして押さえ込んだ)、悟史の二の句に……驚いたように反応した。

「研究の実験体、僕……やってもいいですよ」
「「「 ……え……!!? 」」」

 詩音、監督、鷹野さんが一斉に驚きの声を漏らした。

「ちょ……悟史君……!? な、何を言っているんですか!!?」
「ごめんね。ようやく……二人で一緒に歩んでいこうって時に……詩音には悪いんだけど……」
「……な、納得のいく理由を教えてください! 親切心だけって言うんならいくら私でも怒りますからね!」
 詩音は悟史に詰め寄り、明らかに怒っていたが、悟史は笑顔のままで相手をしていた。
「……君の話を聞いたから、僕はこうしようって思ったんだよ」
「……え……? 私の……話……?」
「うん。僕と……そして、その症状を聞く限りじゃ……沙都子も。その、『雛見沢症候群』って病気にかかってる。だから、僕は沙都子の為にも……僕自身のためにも、それを治す為の薬が欲しいんだ」
「で……でも、それじゃ悟史君の方が」
「……将来、僕達が……二人で一緒になった時」
 詩音の言葉を、悟史が強引にさえぎった。

「僕は、君の事を疑いたくない」

「……悟史君……」

 悟史は、笑顔を崩さず……詩音に優しく言った。
 ……詩音も納得したようで、悟史をゆっくりと放した。

「待て、悟史」
「……! 圭一……」
 だが、俺は……やっぱり、悟史が実験体になるのだけは……どうしても反対だった。
「言ったはずだ。……お前は幸せを目指すべきだ。実験体になる必要なんてない」
「……でも、僕はこの病に悩まされる限り……幸せにはなれないよ」
 悟史が寂しそうに言った。
 ……だから、俺は言ってやった。
「こうも言ったはずだ。……お前と詩音は、幸せにしてやると」
「……」
「俺が実験体になる」

「――ッ!!?」

「俺も一度L5を発祥し、今……おそらくL2だろう。条件は悟史と同じ。……どうだ?」
 俺は監督に視線を送って問いかけた。
「え……えぇ、前原さんの状態は……L2と言えますが……」
「なら問題ねぇな」
「駄目だ!!!!」
 俺が悟史に視線を戻すと同時に、……鋭い声が、俺の耳に響いた。

「圭一……。それじゃ、駄目だよ」
「……どういう事だよ……?」
「幸せの為には……努力をしろと、君はそう言ったよね。……これは、僕達の幸せであって……圭一の気持ちは嬉しいけど、これは僕達自身のために僕が『協力』という形で努力すべき時なんだ」
「……だけど、疑心暗鬼に取り付かれたくないのは俺だって一緒だ。これは俺自身の幸せの為に努力している事とは違うのか?」

「……ねぇ、圭一」

 俺の言葉を無視して、悟史は天井を見上げた。
 そして、息を吸う、吐くを繰り返して……再び俺を見た。

「僕は『前原圭一』に、とても……たくさん助けられてきた。僕自身も、僕の大切な人も……。……僕は君に助けてもらったから今、ここに居るんだ。……正直、君が居なかったらどうなっていたか分からない」
「……別に俺は、お前に恩をきせようと思ってやったんじゃない」
「分かってるさ。……圭一はそんな奴じゃない。それくらいの事は、僕だって分かってる」
「じゃあ」
「だから。……今度は、僕が君を助けたい」
「……え……?」
 一瞬、悟史が何を言っているのかがよく分からなかった。
 俺を、助ける……? どういう……意味だ……? 
 何か……俺は助けられるような事があったっけ……?
「君は今言ったよね。疑心暗鬼に取り付かれたくないって。……それは、つまり雛見沢症候群を完治させたいって意味だ。……だから、僕が……研究を完成させる手伝いをして、君を助けるよ」
「……あ、」
 そういう……意味か……。
「僕にいわせれば、圭一が僕の代わりに実験体になっているようにしか思えないよ。それは僕が望んでいる事では無いし、何より君が幸せになれない」
「……俺……が……?」
「そう。『前原圭一』が幸せになれない」
 
 ……幸せ……?
 幸せって……一体何なんだろう。……今更ながら……俺は困惑する……。
 俺の幸せは……他者の幸せ。
 悟史を……詩音を、幸せにしてやる事こそが俺の幸せだった。
 ……けど……今は……?
 
 俺の……幸せって……?

「圭一も、僕と同じように、『他人の』じゃなく、『自分の』幸せを……考えてもいいんじゃないかな……?」
「……俺……の……」
「幸せの形は人それぞれだって、君は言ったよね? だから、僕には君の幸せの形は分からない」
「……」
「けど、これだけは言えるよ」
 俺の幸せの形。……それは……一体何なのだろう……。
 悟史の幸せの形は……沙都子と詩音が笑顔で居られる事。……そして、詩音と共に居る事だ。
 悟史には、明確な幸せの形が……そこにはある。
 ……けど、俺には……それが無かった。
 ……そういえば、俺自身の幸せについてなんか……今まで考えた事もなかった。
 俺の……幸せ……。

「君は……まだ幸せを掴んでいない」
「……――ッ……」

 ……幸せ……?



『あなたの幸せは……何ですか……?』
 頭の中に……綺麗な声が響いた。。
 ……どこかで聞いた事があるような、……そうじゃないような。
 俺は質問に答えられず、言葉を失う。
 ……すると、さらに声が聞こえてくる……。

『……思い出しなさい。貴方の幸せの形。……あなたは、前原圭一は……それを思い出すに足る資格がある』
 ……俺の、幸せ。
 ……言葉を聞く限りじゃ、俺は幸せを既に手に入れたが、「忘れてしまった」というように聞こえた。
 ……そう……か。つまり……俺は記憶と共に……幸せも失っていたのか。
 俺の……幸せ。
 俺は目を閉じ、静かに……息を吐いた。

 ……思い出せ……。

 前原圭一の……幸せを……。




 ……まぶしい。
 目をつぶれば、そこには闇が広がるばかりだと……思っていたのに。
 俺のまぶたの裏には、光が……輝いていた……。

『よぉーっし! おじさん上がりー!!』
『な……何ッ!!? もう上がりかよ!!』
『おーっほっほっほ! 私も上がりですわ!』
『みぃ、僕も上がりなのです』
『わわ、み……皆早いよ〜……』


 声が……聞こえる。
 誰の声……? ……俺は……何をしているんだ……?

『畜生……このままじゃ負けちまう……!』
『……う〜ん、どっちが……ジョーカーかな……。……う〜ん……』
『……く、どちらか一枚! ……選べ、レナ!! 絶対にジョーカー引かせてやる……!!』


 ジョーカー? ……ババ抜きか?
 何で……俺はそんな事してるんだっけ……?

『やったー! レナも上がりだよ〜!!』
『畜生ぉおぉお!! 負けたぁぁああ!!!』

『ふっふっふ〜……。おめでとう圭ちゃ〜ん』
『うっ……』
『今日はどんな服を着る羽目になるのか楽しみですわーッ!』
『うぅう……』
『みぃ☆ 弱肉強食なのです』
『お、これがいいねぇ!』
『はぅ、魅ぃちゃん……それえげつないよぅ……』
『うぅうおおぉおおぉおあああ!!!』

『あ!! 逃げたぞ!! 追えーーーー!!!』
『『『おーーーー!』』』


 ……光っていた。

『圭ちゃ〜ん、逃げたら罰ゲームはひどくなる一方だよ〜?』
『やかましいッ!! 逃げる前から凄惨じゃねぇか!!!!』
『そ・れ・がさらにひどくなるんだってば〜☆』

『捕まってたまるかぁぁああ!!!』


 とても……光り輝いていた。

『おーっほっほっほ! こちらに逃げ道はありませんでしてよ?』
『ぐ……沙都子……!!』
『みぃ☆ こっちにも無いのです』
『ぐ……うぅう!!』
『ご、ごめんね、圭一君……』

『……あきらめなってぇ圭ちゃ〜ん』
『うああぁぁあ!!!!!』


  
 ……毎日が楽しかった。


『――ったく……二度とあんな格好しねぇからな……。逆に魅音に着せてやるぜ!!!』
『あっはっはっは! そりゃおじさん期待してるよ! あっはっは!』
『頑張ってね、圭一君』



 ……俺の……幸せ……。

『じゃ、おじさんはここだから。二人とも、また明日ね!』
『おう! 明日こそてめぇに人生最大の恥をかかせてやるぜ!』
『あっはっはっは! そうかいそうかい! じゃあね〜!』
『ばいばい、魅ぃちゃ〜ん!』


 ……そう……か……。

『……じゃあ、また明日な』
『うん! また明日、一杯遊ぼうね!』



 ……思い……出した……。


『ただいまー』
『おかえりなさい圭一。今日はどうだった?』


 ……これが……。

『今日も最高だったぜ! あぁ、早く明日が来ないかな〜……なんてな!』
『そう。こっちに来てから、圭一がよく笑うようになってお母さん嬉しいわ』


 ……俺の……。

『そうかもな……。こっちに来てから、俺は……今、』



『……ごめんなさい……』
 ……え……?
 ……声が……再び、頭の中に響いた。
『あなたから……幸せを奪ったのは僕なのです……。……ここへあなたを無理矢理連れてきて……それを奪いました……』 
 ……はじめこそは驚いたが、……もう、この声にも慣れてしまった感じで、俺は普通に返事を返した。
『それならいいって。……俺も、いい経験させてもらったし……。……それに、転校してきた時からずっと感じてた疑問……おかげで解けたからな』
『……』
『それに、ずっと後ろで……見守ってくれてたんだろ?』
『……はい……♪』
 その声は、……嗚咽を必死に堪えた、とても……小さな声だったけど。……嬉しそうに、返事をしてくれた。
『それなら、それでチャラだ。お前も一緒に戦ってくれたから、俺はここに居る。皆に出会えて、俺は本当によかったと思ってるからさ』
『そう……ですか』

『俺の幸せを教えてくれ……だったよな』
『……教えてください。貴方の、幸せを』
『……ああ』


「……戻りたい……」
 


『幸せなんだと思う』



「……日常に……戻りたい……。……魅音と……レナと……沙都子と……」
 口を開いた俺に、悟史は微笑んでいた。
 俺はそれに、溢れそうになる涙を抑えて無理矢理作った微笑み――苦笑いみたいになっちまった――で返し、 
「……梨花ちゃん(・・・・・)
 梨花ちゃんを見て……そう言った。
「圭……一……」
「……思い出したよ。全部……全部思い出した。……本当に……久しぶりだな(・・・・・・)……」
「――ッう……」
 俺は梨花ちゃんに近寄りながら、しゃがみこんでそう言った。
 一方の梨花ちゃんは、涙を流して俺の胸の中へと抱きついてくる。
 ……俺は、優しく頭を撫でてやった。 

「皆で、俺は……普通に日常を過ごしていきたい。……それが、俺の幸せの形だ」
 俺は梨花ちゃんの頭を撫でながら、悟史へ顔を向けて笑う。
「……なら、ここは僕に任せて。圭一は、圭一の幸せを掴んできなよ」
 悟史は安心したような表情で、俺に言葉を投げかけた。
「……ああ。……任せたぜ、悟史」
「うん」


 俺は悟史にそう伝え、梨花ちゃんを抱きかかえて……その場を離れた。
 地下から診療所内までは複雑だったが、来た時の経路は覚えていたので割りとすんなり診療所まで戻ってきた。

 ……後の事は、魅音達が何とかしてくれるだろう。



 
「……なぁ、梨花ちゃん」
「……何ですか……?」
 涙を拭って、梨花ちゃんが返事をしてくれた。
 俺達は診療所のドアから外に出て……光を浴びた。

「これで……全部終わったんだよな」
「……はい……。全部……全部終わったのですよ……。圭一、よく……ここまで頑張りました」
「俺だけじゃないさ。……梨花ちゃんが、俺を助けてくれたからだ。一年目も、二年目も、三年目も……四年目も。梨花ちゃんが居なかったら、俺は……こうして全てを思い出す事すら出来なかったと思う」
「圭一……」
 俺は梨花ちゃんの顔を覗き込んだ。
 ……気のせいか……梨花ちゃんの顔が朱くなったような気がした。
「……ずっと……何かが足りないって思ってたんだ。どれだけ記憶を取り戻しても……何かが足りない。それが何かは分からなかったけど、そんな違和感だけは感じていたんだ。……今日、それが分かったよ。……俺の……最後の記憶のカケラは……梨花ちゃんだったんだな」 
 梨花ちゃんは表情を緩め、目に涙を浮かべながら、
「……それで……ずっと『古手さん』なんて呼んでたのですね……」
 俺に言った。
「ああ。何でかは分からない。最初から『梨花ちゃん』って呼ぶんなら呼ぶで、それでも良かったのにな。……何故か、さっきまで『梨花ちゃん』って呼べなかったよ」
「……それは仕方のない事だと思いますです。だって……」
 梨花ちゃんは話し方をいつものように戻し、顔を一層朱く染め、

「ボクは圭一にそう呼ばれるために、今まで頑張ってきたのですから」

 それだけ言って……あ、えぇと……。
 あまりに……唐突だったもんだから、意識がついていけなかった。
 俺の頬が……真っ赤になっていくのが自分でも分かる……。

 梨花ちゃんは、……俺の、唇に……自らの唇を、ゆっくりと……重ねた……。



「あ……あ……」
 しばらく……時間が経過したのだと思う。
 感覚が全て麻痺してしまった感じで、それさえも俺には分からなかった。
「……真っ赤になった圭一もかわいいのです☆」
 唇を離した梨花ちゃんは、自分が赤くなっているのも忘れて俺を茶化した。
「ちゃ……茶化すなよな……」
 何となく……恥ずかしかったので、俺は視線を外してからそう言ってやった。
 だけど、梨花ちゃんにはそれがますます面白かったらしく、
「みぃ☆」
 と笑って、俺の腕の中でさらに笑いながら、朱くなっていた。




「……そうだ。結局渡せてなかったんだ。……これ、梨花ちゃんにやるよ」
 俺は、ポケットに手を突っ込んで、そこに入れていた物を取り出した。
 ……俺の特製ペンダント。……別に一から作ったってわけじゃないけど、一応俺が作ったって事でいいよな。
「……? これは……ペンダントですか?」
「ああ。それ、フタが二つあって、外れるようになってるだろ? 見てくれよ」
「みぃ」
 梨花ちゃんがフタを開けると、そこには、


『To you who are more important than Keiichi Maebara』


 と綴って(つづ)あった。
 俺はあの時、このように書いていたのだ。

「……? とぅゆぅ……??」
「トゥユゥ、フーアーモアーインポータントザン、ケイイチマエバラ。……前原圭一より、大切なあなたへ」
 英語で書いたのはまずかったかな……。
 しかし、削ったものであったから今更修正が聞かないので、俺は英文を読んだ後に訳を梨花ちゃんに伝えた。
 
「……ありがとう……なのです……」
 すると……梨花ちゃんはペンダントをぎゅっと握り締め、再び朱くなって微笑んだ。
 俺は……それの仕草を見て、同じように頬を朱くした。
 ……とても……かわいいと思った。

 


 
「……帰ろう。古手神社へ」
「……はい」

 

 俺は梨花ちゃんを抱きかかえたまま、古手神社へと歩を進めた。
  








 雛見沢の道を歩いている途中で、俺は梨花ちゃんへと視線を落とした。
 梨花ちゃんは俯いて朱くなり、ついでに俺も朱くなってしまったので、今度は顔を空へと向けた。
 ……綺麗な夕焼けだ。もう……日が暮れようとしていた。

「……俺……さ。昭和53年から、今までずっと……旅……してたわけだけど……」 
「……」
「皆に出会えて、よかったって……心の底から思ってるよ。魅音、レナ、沙都子……詩音、悟史に……梨花ちゃん。……それから、大石さんや監督、赤坂さん、おやっさんに……富竹さんや、鷹野さんも。……北条夫妻や、梨花ちゃんのお父さんとお母さん……。俺は……色んな人と出会って、色んな事を学んだ。……これは、きっと……他の誰も経験の無い、とても貴重なものなんだと思う」
「圭一は……それをどうします……?」
「大切にするよ。思い出は、同時に記憶を意味する。文字通り、記憶に刻み込むさ」
 俺はそう言った後、……朱くなるのを承知で梨花ちゃんへと視線を向けた。
「今まで歩んできた道は……決して間違いじゃなかった。俺は、そう信じて……これからも前へと進んでいく」
「……ボクは、これからも圭一を助けてあげるのです。……ボクも、圭一と一緒に多くの事を学びました。……そして、これからも……そうでありたいと願うから……」
「……ありがとうな」
「にぱ〜☆」

 俺は再び梨花ちゃんの頭を撫でた。
 それが気持ちいいのかどうなのか、梨花ちゃんは身じろぎを一つして俺に抱きついてきた。
 ……その、仕草の一つ一つが……俺にとっては……とてもかわいく思え、そして……暖かさを感じた。
 
 いつも一緒に居たから、忘れていたのかもしれない。
 それとも、彼女を思い出すのに時間が掛かったから、分からなかったのかもしれない。

 ……でも、そんなのはどっちでもよかった。

 俺は……今、確かに梨花ちゃんの温もりを……感じていたのだから……。





 そうこうしていると、俺達は古手神社へと到着した。
 長い階段を一段一段上っていき、境内へと向かう。
 
 そして、とうとう祭具殿前へと辿り着いた。


 
 そこには羽入が居て、もう……準備は整っていると、俺に一言だけ加えた。

「……終わった……。……随分と……長かった気がする……」
「……圭一は、自分自身に課せられた使命を……ちゃんとこなしました」
 俺は梨花ちゃんをすぐ横に下ろした。
 ……ありがとうと言われたが、あえて俺は返事をしなかった。
「よく、昭和53年でダム戦争を終結へと導き、昭和57年で奇跡を起こしてくれました。あなたは胸を張っていいのです」
「……結局……守れなかった人たちも……大勢居たわけだけどな……」
 俺がそうつぶやくと、梨花ちゃんは優しい笑顔を俺に向けた。
「……それでも。私は、あなたが奇跡を起こしてくれると信じていました。……そして、あなたは奇跡を起こしたのです。……自らの強い意志と、仲間を思うその優しさで……」
「……」
「……私は、」
 梨花ちゃんは言葉をつなげようとしたが、一度……そこで区切って、向きを変えた。
 言うか言うまいか迷っているようだったが、結局言う事にしたようで……俺に振り返り、今日一番の笑顔になって……言った。

「あなたを好きになれた事を……光栄に思います」

 俺は……一瞬戸惑った。
 ……好きだなんて……人から言われるのは、初めて……だったから……。
 
「あ……ああ」
 俺は声を必死に絞り出し、
「俺も……」
 ……頼む、後……少し……。
 もう少しだけ……出てくれ……!!
 ……あぁ、畜生……。これって……こんなにも勇気が必要なものなのか……!!
「君の事が、」
 まだ……まだだ……。
 肝心の一言が……言えてねぇ……!
 出ろ……出ろ……!!
 ……くそ……心臓が……バクバクしてはじけちまいそうだ……。
 ……あぁ畜生ッ……!! たった一言……!! たった一言だけなんだ……!!
 勇気出せよ……前原圭一……!!!

「……す、」
 言え……言え……!!
 あと……ほんの少しだけの勇気なんだ……。……言え……言え……!!

「……ッ」
 言え……言え……言え……ッ!!
 早く……言えって……!! ……言え……!
 ……ッ、く……言えよ……!!!
『頑張って』
 ……――ッ!?
 ……え……? 

 ……誰……だ……?

『頑張って』
『頑張れ』
『頑張りなって』
『頑張ってくださいまし』
『頑張ってください』

 ……声が……次々と流れ込んでくる……。

『……勇気を出して』

 ……。

『『『『『 頑張って 』』』』』

 
 ――ッ!!!



「――好きだ!!」 

 ……言っ……た……。
 ……言えた……。

 ……誰だったかは……分からないけど……。

 ……ありがとう……。


 ……それから、梨花ちゃんは、にぱ〜☆と笑い、夕暮れに朱く染まった空を見上げ、寂しそうな顔をした。
 俺は心臓を落ち着けながら梨花ちゃんに近寄り、その頭を撫でて、口を開く。
「大丈夫さ。来年、また会える。……昭和58年に会える時まで……待っててくれるよな?」
「……はい……」
 梨花ちゃんの瞳に浮かんでいた涙を人差し指を曲げて拭った後、俺はポケットに手を突っ込んでから、ある事を思い出した。

「……そうだ、梨花ちゃん。詩音に言っておいてくれるか? 『昭和58年の綿流しの晩、俺を祭具殿に誘ってくれ』って。俺、ここに来る時そうだったから、そうしてもらわないと今の俺は存在しなかった事になっちまうからな」
「……分かりました。ちゃんと、伝えておきます」
「ありがとう」
 俺は梨花ちゃんに笑顔を向け、そして……祭具殿へと向き直り、歩みを進めた。
 すると……梨花ちゃんが後ろからついて歩いてきて、俺のすぐ後ろ――祭具殿の入口前――で足をとめた。
 
「……圭一。……帰りなさい。昭和……58年に。……あなたが、本来あるべき場所へと」
「……あぁ。……それじゃあな」
 俺はそれだけ言い残し、祭具殿の扉を開けた。

「……待ってるからね、……圭一……」




 それから……俺は闇の中へと消えていった。



 






 

 ……辺りは、真っ暗だった。
 目を凝らしても……何も見えない。……そういえば、旅立った日は綿流しの晩……もう、日が暮れていたんだったな。

 俺は扉を開けて、外に出た。


 ……そこには、俺が居て。
 目の前の光景が、信じられないと言った顔をしていた。

 俺はそれがたまらなく面白くて、意味ありげな事を言い放ち、そして……あの時感じた恐怖を何故感じたのだろうかと、そんな事を思っていた。


 祭具殿が()を飲み込んだ後、世界は再び動き出した。

「……あら? 圭一君、どこに行くのかしら?」
「やっぱり俺、やめときます。鷹野さんも、オヤシロさまの祟りに遭いたくなかったら止めといた方がいいですよ」
「……つれないわねぇ……」
「ははは……。鷹野さん、やっぱり止めておこう。圭一君の言う事も一理あるしね」
 富竹さんは陽気に笑い、鷹野さんに言い聞かせた。
 鷹野さんも、しぶしぶ……と言った感じに首を縦に振り、俺達は解散となった。

 鷹野さんと富竹さんが見えなくなったところで、詩音が俺に話しかけてくる。
「……圭ちゃん、梨花ちゃまから事情は全て聞きました。……大変だったみたいですね」
「今となっちゃいい思い出さ。……そうだ、悟史はあれからどうなったんだ? 雛見沢分校にも居なかったけど」
「悟史君は、一応『転校』したって事にして、入江診療所に住み込みで研究のお手伝いをしていたようです。あれから、研究は急速に進んだようで、今じゃ雛見沢症候群への良薬が開発されたそうですよ」
「悟史と沙都子は、もうそれを使っているのか?」
「はい。研究結果でも、薬の使用には問題無いそうで、悟史君も沙都子も完治させました。村人にも、近い将来配っていくみたいですね」
「……順調ってわけだな。……鷹野さんは、どんな様子だった?」
「監督があの時言ったように、雛見沢症候群は着々と解明されていき、この一年で医学界にも知れ渡っていってますよ。こちらも順調、鷹野さんも満足そうな顔してました」
 ……じゃあ、さっき祭具殿に入ろうとしていたのは……ただの知的好奇心ってところかな。
 あの人、何にも恐れそうにないからな……。

 俺は、闇に包まれた夜空を見上げ、息を吐き出した。

 ……全てが、順調。
 皆が皆……幸せを歩んでいっているんだ。
 ……これで……よかったんだよな……。

「それから、綿流しのお祭りが終わったら再度、『転校』って事で、悟史君、雛見沢分校に帰ってくるみたいですよ。ついでに、私もそちらに行くつもりなのでよろしくお願いしますね」
「ああ。……じゃ、学校で会おうな」
「ええ。部活、楽しみにしてますから!」
 ……おぉ、そういえば……これで俺も晴れて堂々と部活に参加できるわけだな。 
 思い出した後だからこそ思うが、部活の無い日々は退屈でしょうがなかった。あれほど日常にスリリングな経験を与えるものも他には無いだろう。

「……そうだ、悟史君に、今日圭ちゃんに会ったら『圭一、ありがとう』って伝えてくれって言われました。……ちゃんと伝えましたからね?」
「ああ。承った。詩音、ご苦労さん。俺のわがままに付き合ってくれて、ありがとうな」
「いえいえ。……それじゃ、私は悟史君の所に戻りますね」
「ああ」
 詩音は手を振りながら、嬉しそうに悟史のもとへと帰って行った。

 ……俺は祭具殿を見上げて、何度もお世話になった事を思い出していた。

 初めて、『俺』がこの中から出てきたのを見た時……これからどうなっちまうんだよ、って思ったんだっけ。
 ……俺はあのまま死んじまうのか……とすら思ったんだよな。
 だけど……待っていたのは、ダム戦争の真っ最中の雛見沢だった。

 ……長かった。

 本当に、長かった……。




 ……前原圭一、昭和58年に……帰ってきたぜ……。

 俺は、祭具殿に一度だけ礼をして、待っていてくれる梨花ちゃんのもとへと駆け出した。





「……梨花ちゃん……!」
「……! ……おかえりなさい(・・・・・・・)、圭一」
「ああ。……ただいま」

 梨花ちゃんは、集会所の所に居た。
 中では明かりがつけられており、どうやら打ち上げの準備をしているようだった。

「待っていたわ」
「……ありがとう。……これが、最後になるな。四つ目……。……前原圭一、古手梨花と共に居ると……ここに誓おう」
「承ったわ。……それじゃ、行きましょうか?」
「……? どこに?」

「……あなたの、『幸せの形』のもとへ……」


「おーい! 圭ちゃーーん!」
「圭一くーんっ!」
「圭一さーん!」

 俺が梨花ちゃんの指差した方を見ると……向こうから、魅音、レナ、沙都子が走ってくるのが見えた。

「おおーッ、皆ーーー!!!」
 俺は梨花ちゃんの手をしっかりと握って、皆のもとへと駆けて行った。
 ……とても、久しぶりな気がした。
 さっきまで顔をあわせていたというのに……何だか、不思議な感覚だ。

 ……俺の、「幸せの形」。

 ……ようやく……俺は手にしたのだ。


「今から打ち上げだよ! レナも沙都子も梨花ちゃんも、勿論私も参加するけど……どうする?」
「ヘッ……!」

 俺は溢れそうになる涙を必死に抑えながら、口を開いた。

「参加するに決まってるだろ!」
「よし決定!! じゃ、うち等が一番乗りと行こうじゃない!」
「よーし、突撃だ、皆ーーーーー!!」

「「「「 おーーーーッ!!! 」」」」




 俺達は一斉に駆け出した。
 それは……俺があの時、入江診療所の地下で見た……光輝いていた光景。

 俺は、取り戻した幸せをかみ締めながら……集会所の中へと入って行った。





 ひぐらしのなく頃に 記憶辿り編     完







 TIPSを入手しました。

 ■昭和57年十二月





 ■昭和57年十二月■


 前原圭一が昭和58年へ向かって祭具殿の中へと消えてから、半年が経っていた。
 雛見沢は寒村であるため、冬になるとあたり一面が銀世界になる。
 
 それに例外は無く、祭具殿もその景色の一つとなっていた。
 屋根には雪が積もり、太陽の日差しで少し解けては落ちる、を繰り返していた。
 ドサリと、何度目からの雪が落ちる音がした時、祭具殿の中から声が響いた。

「あったわ!!」

 祭具殿の入口は開け放たれており、陽気な日差しがそこから中を照らしていた。

「あぅあぅ、見つけたのですか? 梨花」
「ええ! ついに……見つけた……!」

 昼間でも薄暗い祭具殿内部では、梨花が一本の、鞘に収められた刀を持っていた。

「……鬼狩柳桜(おにがりのりゅうおう)……!!」
「……それは……」
「……ごめんなさい、羽入。……これを……アンタが見たくないというのは……分かってる」
「……」
 梨花は上空に刀を掲げた。

「でも、私達は忘れてはいけないの」
「……」

「オヤシロさまの祟りは、まだ……終わってない」






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